
2003年10月3日更新
(5)
その日から私は、毎晩のように『マダム・バタフライ』を訪れ、秋生を抱いた。もう、誰にも触れさせたくなかったからである。
私の心は決まっていた。秋生を黄龍グループの後継者として連れて帰るつもりであった。他の当主達には、最初の日に知らせていた。彼らは私が彼を愛していてしまった事をまだ知らないが、私の言葉への反対はなかった。彼らもあの方を失ったという大きな痛手から立ち直るための存在を必要としているのだ。
我々四家の忠誠は、『冬子様』では器不足なのである。秋生の存在はまだ未知数かも知れないし、彼はこれから多くの事を学ばねばならない。今までとは違う意味での試練も数多く待ち受けているであろう。だが、彼ならば大丈夫だという確信が私にはあった。それは私の彼への個人的な感情を差し引いても充分であった。
きっと他の当主達も秋生を気に入るだろう。認めなければ、私が青龍家の当主を辞任するまでだ。私は秋生を失いたくない。彼の側で生きていきたいと願う。そのためならば、何を失ってもかまわない。すでに私は、一度、あの方を失った時に死んでいるのだから。粉々に砕け散ったはずの私の心は、今、秋生という夢の破片を得て、再生し始めているが、恋をするのに時間など関係ないことを私は初めて知ったのであった。
全ての手配は整い、私はついに『ラ・メール』から明日、旅立つことを決めた。チケットの手配も済ませ(勿論二人分である)、秋生の借金返済も店そのものを買い取ることで片をつけた。廖の調べでマダム・トーニャは店を任されてはいたが、本当のオーナーでないことが判明し、密かにオーナーと話をつけたのである。実はマダムはオーナーの愛人であったのだが、案外話は呆気なくついた。オーナー自身が、マダムを厭わしく思い始めていたのである。
秋生にはまだ全てを打ち明けてはいなかった。全ては極秘の内に運ばれたのだ。『冬子様』に知られれば、それこそ秋生の命にかかわってくる。それほどに彼女は非常な野心家なのである。
その日、私は全てを打ち明ける覚悟で、秋生を昼食に誘った。そして、穏やかな楽しい一時を過ごした後、ついに私は切り出した。
「明日、この星を発ちます」
その言葉の後には、『勿論、貴方も一緒です』が、続くはずだったのだが、秋生はその言葉を聞くなり、真っ青になって立ち上がり、駆け出して行ってしまった。
「さよなら、ミスター。ありがとうございました」
私の脇をすり抜ける際に残した言葉。唖然としている私を一人残して、引き止める隙も与えずに、彼は風のように走り去ってしまった。
秋生も私の事を愛してくれていると信じきっていた私には、彼がこんなにもあっさりと別れを告げて去ってしまった事がっ、少なからずショックであった。少しぐらい『行かないで』と懇願してくれてもいいようなものなのだが、彼がそういう性格でない事も知っていた。
謙虚で真面目過ぎる恋人は、諦める事に余りにも慣れてしまっているのだ。彼にまず最初に覚えてもらわなければならない事があるとすれば、それは私が心の底から自分の事を愛しているのだという事である。自分なしでは生きられない人間がいることを。
彼の帰る場所はただ一つ。あの方が春麗と出会い恋に落ちた『マダム・バタフライ』。彼が育った場所。そして、今夜がそこで過ごす最後の夜になる場所。
店は開店前だったが、扉は開いていた。私は、もう通いなれた階段を上がって、秋生の部屋へ行こうとして、その騒ぎに気づいて、しばらく様子を伺う事にした。
秋生の部屋の前には、店の者達が集まっていた。部屋の中からは、マダム・トーニャのヒステリックな叫び声が聞こえてくる。
「ふざけるんじゃないよ。あの男、黄龍グループの関係者だっていうじゃないか。あんな金づるたらしこんでおいて、自分だけいい目見ようたって、そうはいかないよ」
自分の素性が何処からか洩れていることに私は苦笑いした。事は一刻も早く急がねばならない。『冬子様』の耳に入る前に、動かなければならない。
「本当に何もいただいていません。そのお金は僕がためたお金です。お願いします、マダム。返してください」
秋生は必死に懇願していた。
「何言ってるんだい。秋生、あんたには借金があるんだ。金があるんだったら返してもらわなきゃ。こんなはした金じゃ何の足しにもならないけどね。金が欲しけりゃ、もっと上手く立ち回って、貢がせるくらいするんだね」
秋生には私としてはもっといろいろしたい事があったのだが、彼は一切それらを受け取ろうとしなかった。けじめをつけたいからと言ったのだが、その意味が今、やっと分かったような気がした。仕事としてではなく、私を大切に思ってくれるからこそ、物を貰うという行為に甘んじる事がなかったのだ。
「そ・そんな事、出来ません。ミスター、ビンセント・青は素晴らしい人です。そんな事したくはありません」
聞いていて嬉しい言葉であった。少しでも秋生のつれなさを恨みに思った事を私は後悔した。
「はっ、今更奇麗事を言ってんじゃないよ。お前は今まで何人の男と寝たんだい。その身体を売ったんだい。お前はもう骨の髄まで淫売なんだよ」
吐き捨てるように言うマダムの言葉に、私はカッと怒りを覚えた。そういう行為を自分で借金を理由に強いておきながら、秋生を傷つける醜い汚らしい人間への怒りに、私の堪忍袋の緒はついに切れるのであった。
部屋の前に集まった人垣をかき分けて、私は部屋へと入っていった。
「そのお金は貴方に差し上げましょう。ですが、今の言葉は許せませんね。取り消して下さい」
自分でも珍しく熱くなっている自分に驚いていた。秋生は突然の私の乱入に驚いているようで、私は彼にもう大丈夫だと大きく頷いて見せた。
「ミスター、どうして・・・・・・」
「貴方が大切な話の途中で帰ってしまったから。どうか聞いて下さい。私は明日、この星を発ちます。が、その時は貴方も一緒です。いいですね」
「えっ」
秋生の瞳が驚きに大きく見開かれた。
「この星を出ましょう」
それは私にとって一世一代のプロポーズであった。
「ああ、ミスター」
秋生の目に忽ち涙が溢れ、私の腕の中へと彼はまっすぐに飛び込んできた。
「これはきっと夢なんだ」
「いいえ、秋生。私は貴方のお父様に頼まれて、貴方のお母様の行方を捜して、この星に来たのです。残念ながら貴方のお父様は先日、病気で亡くなられました。が、最後までお母様との約束を気にしていらっしゃいました。これは貴方のお父様が大切にしてらした写真です」
写真を見せると、秋生は本当に嬉しそうに笑って、頬を流れる涙の筋を手で拭った。
「貴方を迎える準備が整いました。何も心配する事はありません。私が、いつも一緒にいます。安心してください」
「ミスター・・・・・・」
「ビンセントとお呼びください」
「ああっ、ビンセント。夢じゃないよね」
私と秋生はお互いをしっかりと抱きしめあって、互いの思いを確認した。
「うわあ〜っ」
と、歓声が上がり、私達を祝福して拍手がおこった。それは店で働く者達であった。皆、同じような辛い境遇で働く仲間であり、秋生の頑張りを見てきたからこそ、素直に祝福してくれたのである。だが、一人。彼女だけは別であった。
「何、言ってんだい。秋生には借金があるんだよ。はいそうですかとは渡せないよ」
マダム・トーニャは怒りに顔を真っ赤に染めて、激しい口調で言い放った。
「失礼ですが、マダム。既にオーナーとは話がついています。この店は私が買い取りました。これが権利書です。貴方は首です。さっさと出ていくのですね」
権利書を見せると、赤かった彼女の顔がサーッと青ざめていった。そして、信じられないとばかりに大きく身を震わせた。
「オーナーも貴方にはうんざりだそうですよ。少しやり過ぎたのです。そのお金は差し上げますから、さっさと出て行きなさい」
彼女に容赦ない言葉を叩きつける。秋生を苦しめた罪はこれぐらいで償えるものではない。殺しても飽き足らない相手ではあったが、それほどの価値もない人間であった。
「覚えておいで」
捨てゼリフを吐いて、マダムは部屋を飛び出して行くと、その後に再び歓声が上がった。
「一緒に行ってくれますね、秋生。嫌だと言わないで下さい」
「本当に夢じゃないんだね。一緒に行っても良いんだね」
「ええ、秋生」
私はもう一度しっかりと秋生を抱き締め、幸せを噛み締めるのであった。
店の者に送られて、私と秋生は船に乗った。『マダム・バタフライ』の権利は、彼らに譲り渡した。借金も全て帳消しにした。昔の酒場に戻るだろう事を期待して。
幸せな夢が育まれるような、暖かい店に、あの方の夢が永遠に語り継がれるような場所であって欲しいと願いを込めて・・・・・・。
深遠の宇宙に浮かんだ惑星ラ・メールの姿を見つめながら、私は傍らに寄り添って立つ秋生の肩をそっと抱いた。
幸せへの旅立ち。
未来は今から始まる。
これから起きるだろう幾多の困難も、二人ならば乗り越えられる。
私は誓おう。
いつも貴方の側に在る事を。
そして、この命の全てを守りぬく事を。
おわり
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