真田みのこ オリジナルJUNE小説
BRAN−NEW LOVERS
(1)
2000年9月10日更新
世界のファッションの最先端とも言えるプレタポルテコレクションは、ミラノに始まり、パリ、ロンドン、ニューヨーク、東京と世界各地で開催される。
なかでもパリコレクションは、8日間に100ものショーが開催され、世界各地から最先端のファッションを求めて集まる人々によって、賑わいをみせる。
大物有名デザイナーから、若手の無名のデザイナーまでが、己の才能の全てを注ぎ込んだ作品を発表するのである。
会場は大きな劇場から空き地にまでおよび、それらを少しでも多く目にするためには、それこそ一日の間に11や12は軽く回らなければならないが、その前にショーの招待状を手にすることが、困難であったりする。
招待状がなければ、その人物がどんなに有名人や権力者であろうと、門前払いされてしまうのだ。そんなデザイナーのこだわりとプライドをかけたファッションショーに、世界各地から集まるプレスだけでも1000人を越えるのだから、まさに熾烈な戦いが展開されるというわけである。
そして、有名な大物デザイナーであっても、作品の出来が良くなければ、ショーの途中で人々はドンドン退席してしまうという厳しい事態になるし、無名であった者が素晴らしい作品を発表することで、一夜にして世界中の注目を浴びることになったりもする。
だから、世界中のデザイナー達が、パリで自分のショーを開くことを望んでやまない。
まさにパリはファッションを志す者にとって『夢の都』なのである。
そして、一見きらびやかに見えるフッションショーの舞台裏は、まさに人の夢と野望、嫉妬、成功と挫折の入りまじった戦場であった。
半裸の色気も素っ気もないモデルに、進行に従って次々と服を着せ、ヘアーやメイクを整えて、誰もが溜息をついて憧れる最高の美男美女に仕立てあげていくスタッフ達。
そして、服の持つ最高の魅力を引き出して、目の肥えた人々を魅了する、選ばれた一流のモデル達。その努力は、決して表舞台に出ることはないが、彼や彼女らの力無くしては、ショーは成立しない。
だが、秒刻みの戦場も、幕が下りれば長閑な雰囲気に包まれる。ショーの間、緊張しきっていたスタッフ達の顔には、最高のショーを作り上げた喜びに満ち溢れ、高揚感でかなりハイな感じで、あちこちで笑いが零れる。最前線で戦い抜いた戦友といったところであろうか。
そんな和やかな雰囲気のなかで彼は一人、鏡の前に座っていた。慣れた手つきでメイクを落としながら、『やれやれ終わったなあ』と、ホーッと静かな安堵の溜息をつく。
パリコレも今日が最終日。ミラノの続いてのハードスケジュールで、一日に幾つものショーを掛け持ちする売れっ子のモデル、それも世に言うところのスーパーモデルである彼も素顔に戻れば、人も羨むその美貌にすさがに疲労の色は隠せなかった。
鏡の中の自分に向かって、『よく頑張った』と誉めてやりたいくらいに、彼はかなりヘロヘロに疲れ切っていた。舞台ではそんな素振りを面に決してあらわさないように、気を張りつめていただけに、『終わった』という安堵感から、一気に身体から力が抜けてしまったという感じであった。
まだ、これからロンドン、ニューヨークと飛び回らないといけないのだが、とりあえず一息ついたというところである。
(ああ、とりあえず明日はゆっくり一日中、寝ていよう)
今は何よりも睡眠への欲求が一番であった。
「イオ、最高だったよ!!今夜の成功は、イオのお陰だ。ありがとう!!」
突然、感極まって少し涙さえ浮かべながら、彼の背中に抱きついて来て、その逞しい筋肉質な腕でギュッと抱き締めたのは、50過ぎくらいの男で、デザイナーのジャンポール・デュランという今、パリでも五本の指に入るという売れっ子のデザイナーであった。
短く刈り上げた灰色の髪と、顎に無造作にはやした髭と体育会系の肉厚な身体からは、とてもデザイナーの繊細なイメージとは程遠い感じであったが、確かな才能の持ち主であることは、彼、メンズのスーパーモデルであるイオこと、藤原 伊織も認めていた。
だから、超ハードなスケジュールの状態で、引く手数多の誘いの中でも外せないデザイナーの一人として選び、出演を決めたのであった。
伊織の読みどおり、今夜のショーは見事に成功したが、それはジャンポール自身が自分の手で掴み取ったものであり、モデルの自分はそれをほんのちょっとお手伝いしたに過ぎないと、思っていた。
しかし、いくらデザイナーとして有能であっても、ごつい腕で息も出来ないくらいに強く抱き締められ、おまけに必要以上にベタベタと身体を触られるのは、感謝されているとはいえ、いただけなかった。
(これがなけりゃ、いいおやじなんだけどなあ)
伊織は、内心、フ〜ッと溜息をついたが、邪険に振り払うことも躊躇われる相手であった。
ジャンポールの言うとおり、本当に今夜のショーは最高の出来だった。伊織自身も最高のウォーキングが披露出来たと思うし、観客達の様子からもそれは実感することが出来たので疲れていたがその分、満足度も大きかった。
それにしても、今、ジャンポールが着ているギラギラのラメシャツとレザーのズボンは、身体にピッタリ密着しており、その筋肉質な身体を強調していて、とてもセンスが良いとは言い難かった。本人が気にいっているのかどうかは分からないが、どうも自分自身へのファッション感覚は、作品とはまた別物らしい。そんな格好で、身体をすり寄せるのは、いい加減にして欲しいと思いながらも、伊織はそれを面に表すことは決してなかった。
「イオ。打ち上げには勿論来てくれるんだろう!!」
鬱陶しいけれど疲れているので、されるままになっていた彼に、こともあろうかジャンポールは図に乗って、その耳たぶにや首筋にチュッチュッとキスを始めて、これにはさすがに辟易してしまう。
(おやじいい加減にしてくれよ。気安くさわるなってば!!)
と、叫びたい心を抑えつつ、彼は営業用の特上のスマイルを浮かべて、応えるのであった。
「あ〜っ、しまった。約束があったんだ。残念だな〜っ。ジャン、御免なさい。また今度、是非誘って下さいね」
いかにも申し訳なくて残念だという風に、やんわりとお断りする。
仕事には人間関係が非常に大切なものだということは、よく分かっているつもりであった。どんなに才能があり、優秀であっても成功は手に入れられるものではない。運も大切だし、人脈も必要なのである。
特に人気商売で競争の激しい世界においては、敵を作らないように上手くたちふるまうことが大切だと、所属しているモデルクラブの社長に、普段の素行に問題ありとされている伊織は、耳にタコが出来るくらいに言われていたし、彼も確かにそうだと納得していた。
「おお、イオ。なんてつれないんだ。その冷たいところがまた何とも素敵なんだが。ああ、約束っていうのは一体誰となんだ?今夜が駄目だったら、いつでも君のために時間を空けるから、是非、連絡して欲しい!!」
相変わらず彼に抱きついたまま、頬にチュバッと音がするくらいのキスをして、さも残念そうにジャンが言う。これがお愛想じゃなくて、かなり本気なのだからまずいのである。髭のチクチクが気持ち悪かったが、それでも堪えて、伊織は笑顔で頷いて見せるのであった。
「もちろんだよ、ジャン。今夜は本当に最高のステージだった。惚れ直したよ」
これはお世辞ではなくて、伊織の本心であった。ジャンポール・デュランは、一流と言われて当然の才能の持ち主であった。ただし、惚れ直したのは彼の才能にという意味で、恋愛感情は一切なかった。
「イオ、嬉しいよ!!」
伊織の賛辞を素直に喜んで、天才デザイナーにはとても思えないただの危ないおやじが、子供のようにはしゃいでますます強くしがみついてくる。
周りのスタッフ達は、その様子にヤレヤレと苦笑しながら、鏡の中の伊織に向かって、『すみません』とばかりの視線を送って来る。彼もそれに気がついて、微かに笑うと助けを求めるのであった。
(早く、このおやじをどうにかしてくれよ〜)
「ジャン、記者がインタビューしたいとお待ちかねですよ。さあさあ、急いで下さい」
と、伊織の願いを察してか、ジャンポールを強引に引き剥がしてくれる。
「きっとだ。待ってるから、イオ。絶対に連絡してくれ〜」
両脇を捕らえられて、スタッフに引きずられるようにして連れて行かれながらも、心残り一杯という感じで、大きく手を振って叫ぶジャンポールに、軽く手を振り替えして見送った伊織は、さっきよりもかなり疲れがましたような気がして、もう一度、深い溜息をつくのであった。
さっさと、私服に着替えて、仲間のモデルやスタッフ達に別れの挨拶をした伊織は、重い身体を引きずるようにして、会場を後にした。
記者やファン達が出入り口で待ちかまえていたが、ジーパンにシャツという至極シンプルな私服の彼はとても地味なのと、よく使う手なのだが、あとかたづけの舞台装置のスタッフの一団に紛れて、まんまと欺いて逃げ出すのに成功した。
190センチある背の高さも日本にいる時と違って、色々な人種がいるパリでは、悪目立ちすることはなかった。道行く人も彼が人気のスーパーモデル、イオ楕とは気づいていない。仕事で騒がれるのは有り難いことであったが、プライベートにまで及ぶのは、遠慮したかった。 一応、日本生まれの日本育ちの伊織であったが、派手めの容姿のお陰で日本ではいつも外人扱いであった。
伊織は母親が学生時代、アメリカに留学中につきあった男との間に出来た、いわゆるハーフであり、母親は間抜けなことに、男と別れて帰国した後に妊娠に気がついた言うぐらいであったから、相手ともそれっきりらしく、未婚の母親としていろいろ苦労しながらも彼を育ててくれた。
けれども、世間的には体裁の悪いことらしくて、日本では小さい頃から何かと噂の種にされ、苛められもした。陽にあたるとほとんど金色に近い色素の薄い髪や、茶色の瞳は異端であり、今では『東洋の奇跡』と絶賛される日本人にしては彫りが深く、外人にしてはすっきりと整った繊細な美貌は、『オカマ』と称されて、『女男』と囃したてられた記憶もまだ鮮明に彼の中に焼き付いている。
苛められた分、倍仕返ししたのも懐かしい思い出となっているが・・・・・・。
伊織が高校一年の時、クラスの女子が免ずのフアッション雑誌に、彼に内緒で送った写真が人気投票で一位になり、その雑誌の一年間の素人モデルに選ばれたのをきっかけに上京して、モデルの道を歩み始めた。
小さい頃からコンプレックスでしかなかった容姿が、今度は彼の売りになったのだから、運命とは皮肉なものだとつくづく思ったものである。
日本でも結構、順調に売れて人気もあったが、17の時にチャンスを手にしてパリにやって来てから、5年が経つ。
現在、22の伊織は、お陰様で世界的なスーパーモデルとして、世間に認められて、忙しい毎日を送っていた。
夜道を一人、重い足を引きずるように歩いていた彼は、疲労の原因の一つに思い当たった。
(あ・ああ〜っ、腹減ったな〜)
朝からろくに食べていなかったことに、今更気がつくとは間抜けな話であるが、忘れるほどに忙しかったのである。
おまけに、しばらく仕事が忙しかったせいで、自分の家にも帰っておらず、冷蔵庫の中が空っぽ同然でであることも思い出して、伊織は落胆した。
そうなるとますます空腹を覚えてしまったのだが、今から買い物して、マメに料理する元気はさすがにもう残されていなかった。
(天吉へ行こう!!)
今いる場所からそんなに遠くないことに気がついた伊織は、迷うことなく『日本人通り』といわれ、日本料理のお店が多く集まるサンタンヌ通りにある、お気に入りの店、『天吉』に向かって歩き出した。
すると、先程までの足取りとは違って、結構、元気が出たりするから不思議なものである。
『天吉』は、パリに来て見つけた彼のお気に入りの日本料理店であった。そんなに大きくない店だが、海外赴任中のサラリーマンや留学生達でいつも賑わっている。
天麩羅や寿司がメインではあるけれど、足繁く通ったお陰で、すっかり仲良くなった大将と女将さんは、頼めばうどん・そばや、芋の煮っころがし等の家庭料理も作ってくれるようになっていた。
パリに来てからだが、自分がやっぱり日本人であることを、食に関してはしみじみと思い知らされていた。本場のフランス料理や、ファースト・フードなんかも決して嫌いではないが、白いご飯におみそ汁、焼き魚、刺身、漬け物とか、時には天丼やカツ丼なんて言うのが、無性に食べたくなったりするのである。
それに『天吉』の名物は料理だけでなく、粋な大将と女将さんがとてもいい人達で、二人に会うのも楽しみであった。
『天吉』に辿り着いた伊織は、入口の暖簾が既にしまわれているのに気付いてちょっとショックを受けたが、店内に明かりがついていたので、強引に店の中へと入っていった。
すると、まだ客が二人ほど残っていたので、少しだけ安心するのであった。
「今晩は〜っ」
日本語で厨房へと声をかけると、女将さんが顔を出した。
「まあ、伊織ちゃん。いらっしゃい」
彼を認めた女将さんがいつもと変わらぬ笑顔で迎えてくれると、なんだか自分の家に帰ってきたみたいに思える。
「さあさあ、座って頂戴!!」
カウンター席を勧められて、待ってましたとばかりに素直にその言葉に従った。図々しいとは思ったけれども背に腹はかえられない。でも、一応、謝ってみるのであった。
「ごめんね。もう、閉めるところだったんでしょう?」
「あらいいのよ。伊織ちゃんが来てくれたんですもの。仕事、忙しいんでしょう。この間、TVに出てるのを見たわ。凄いわね、伊織ちゃん。あんまり綺麗だから年甲斐もなくうっとり見惚れちゃったわ」
彼がモデルであると言うことは知ってはいるものの、日頃の素の伊織を知っている女将さんが、モデルのイオと店の常連客である彼が同じ人物だとはとても信じられないと言っているのを普段から聞かされていたので、仕事の自分を彼女が認めてくれたのは、とても嬉しいと思うのであった。
60過ぎの女将さんは、着物に割烹着という、いかにも日本の母親って感じで、目尻の皺を歪ませて、変わらぬ優しい笑顔ていつも゜迎えてくれる。日本にいる伊織の本当に母親よりもかなり年上であったが、それでも日本のお袋さんと言う感じがして、遠い異国にいる身としては、ホッと安心出来る存在であった。
「よっ、伊織ちゃん、いらっしゃい。しばらくぶりじゃねえか。おなか空いてるんだろう。ちょっと待っててくれ。今、うめえもん喰わしてやるから」
禿げた頭に手ぬぐいの捻りはちまきが粋な大将が、厨房からわざわざ顔を出して言う。
「大将、本当言うと、もうペコペコなんだ」
伊織は両手をあわせて『お願いします』と拝んでみせながら、やっぱり来て良かったなあと、しみじみ思うのであった。
そして、大将は言葉どおりに美味しそうな料理を、伊織の前に一杯並べてくれた。ホカホカの白いご飯は食欲をそそり、遠慮なくガツガツと喰う彼を、二人は嬉しそうに暖かな眼差しで見守ってくれた。これが部屋で一人寂しく食べていたとしたら、折角のご飯の美味しさも半減してしまったに違いない。
最後の客二人も帰ってしまった後、貸し切り状態になった伊織は、安心しきって料理を堪能するのであった。
「なんたって身体が資本なんだから、ガンガン喰わねえとな。伊織ちゃんは、ちっと痩せすぎだな」
「あんた何言ってるの。伊織ちゃんはモデルさんなんだから、ダイエットとかいろいろ大変なのよ」
「なに言ってやがる!!男がチャラチャラそんな事気にして、仕事なんかやってられるか」
(ごめんよ、大将。チャラチャラしてるんだよ)
別に太りやすい体質ではないけれど、放っておけば無茶苦茶食べてしまうので、なるべく気にするようにはしていたが、ここのところはさすがに忙し過ぎて疲れて、食欲もつい忘れるほどになかったのだが、しかし、やっとそれも無事に補えて、伊織は凄く満足していた。
唐突に『あっ、そうだ』と、女将さんがポンと手を打って、思い出したように言った。
「そうそう、住吉商事の長田さんが一昨日見えて、来月の頭に転勤で日本に帰ることが決まったんですって!!」
(えっ!!長田さんが日本へ帰る!!)
思いかげない言葉に、折角回復した元気も急激に冷えてしまい、余りのショックに、口一杯に頬張っていたご飯を、ブ〜ッと吹き出してしまいそうになって、慌てて飲み込んで難を逃れたが、今度は喉に詰まらせて、苦しくて涙を流しながら、お茶をグイッと飲み干して、ホッと一息をついた。が、その間も頭の中をグルグルといろんな思いが渦巻いていた。
(う・嘘だろ。そんなこと、聞いてないよ〜っ)
長田の、ただのサラリーマンにしておくには惜しいクールでハンサムな顔を思い出しながら、伊織は聞き間違いではないかと言う僅かな期待を込めて、女将さんにもう一度尋ねなおしてみるのであった。
「本当に長田さん?あの、長田さん?もう、決まりなの?」
聞き間違いであって欲しいと願い、縋るように女将さんをみた伊織であったが、彼の期待はあっさり裏切られ、女将さんは間違いないとしっかり大きく頷くのであった。
「急な事らしくて、私もビックリしちゃったわ。伊織ちゃんも長田さんとは仲が良かったから、寂しくなっちゃうわね」
「う・うん・・・・・・」
彼があんまり落胆した顔をしてしまったせいか、女将さんが残念そうにそう言いながら、空っぽになった湯飲みにお茶を注いでくれた。
(長田さんの馬鹿。俺、そんなこと聞いてない・・・・・・)
日本でも三本の指に入る一流企業、住吉商事に勤めるエリートサラリーマン、長田 健士と伊織は、この『天吉』で知り合った。お互いがこの店の常連で、通っているうちに何となく話すようになり、親しくなったのだ。知り合ってからもう二年になる。
長田は、32歳でバツイチの独身。パリにくる前に上司の娘である妻と離婚して、飛ばされて来たと伊織は聞かされていた。
しかし、かなり優秀らしく、飛ばされてきたというよりもほとぼりを冷ますためで、実際は栄転であろうと思われた。
伊織より10歳年上の長田は、大人でよく言えばクールで、悪く言えば冷めている、なかなかのくせ者であった。
そして、伊織が何故こんなに動揺しているのかといえば、ただの知り合いという関係だけではなくて、実は長田とは友達以上恋人未満のセックス・フレンドという誰にも言えない妖しい関係であったりするからなのである。
(日本に帰るなんて大切な事、俺には話す必要なんてないって言うの・・・・・・)
まったく冷たい男である。伊織の心を翻弄しておいて、素っ気ないったらこのうえない。確かに長田は大人で、余裕があるかも知れないが、一応、友達ではあったのだから、こんな大切なことを教えてくれたっていいのではないかと、恨めしく思える。
「俺、一昨日長田さんと電話で話したけれど、転勤するなんて事、全然言わなかった!!」伊織は優しい女将さんに甘えて、自分の無念を訴える。恋人を望むのは、端から諦めてはいたけれど、友達でさえなかったなんて、それでは二人で過ごした時間はなんだったんだろうと思うと、情けなくて堪らなかった。お互いに多くを語る方ではないが、どこかで解りあえているように感じていたのは、伊織の錯覚だったのだろうか。
「あら、まあ。きっと伊織ちゃんが忙しいのが分かっているから、言えなかったのよ。うちて゜お別れ会をやりましょうね」
「うん・・・・・・」
一応取り繕って頷いて見せたものの、伊織は全然納得していなかった。女将さんや大将に愚痴ってみても仕方ない事で、どうせなら本人に嫌みの一つや二つや十や二十は言ってやりたいと思うのであった。
自棄になって喰いまくり、熱くなった頭を冷やすために皿洗いを手伝った後、おまけしてもらって、ただ同然みたいな金額を支払った伊織は、女将さんや大将に『お休みなさい』を言って、『天吉』を後にして、憎き男、長田 健士のマンションへと向かうことにした。
先程まで確かに感じていた疲労感など何処かに消え失せ、伊織の頭の中では、長田への思いが、ただグルグルと渦巻いていた。自分でもどうしてこんなに腹立たしいと思うのか、不思議なくらいにショックであった。
出会って二年。そう言う関係になってからは、一年余りが経つ。セックス・フレンドなんて、最初からお互い割り切ってのつき合いだったはずである。
伊織自身も過去の苦い経験があったので、深入りしないように用心しているつもりであったし、最初から真面目な恋愛を望んでいたわけではない。
男とか女とかではなくて、恋愛そのものに抱いてしまった不信感から伊織はまだ立ち直れず臆病になっているのだ。
日本を出て来た理由の一つが、失恋であった。それも最初で最愛の相手に酷い裏切り方をされてしまったのである。そして、惨めな自分でいたくなくて、日本を飛び出してきたのであった。ちなみに失恋したその相手は、男であった。
あれから五年経ったが、恋愛に関してまだ何処かこだわりがあって、自分の気持ちに素直になることを恐れている自分がいる。
また、裏切られるのではないかと思うと、例え身体は許しても、心までは許すつもりはないし、最初から割り切れる相手としかつき合わないようにさえしていた。
伊織の容姿に惹かれて言い寄ってくる相手は掃いて捨てる程いたから、別に不自由したことはなかったし、それはそれなりにゲームみたいに楽しみもした。
そして、出会った長田 健士は、伊織とは歳も仕事も価値観や考えた方など、何もかもが違っており、普段ならば決して接点のない二人であったが、パリという異国の地で出会い、同じ店の常連ということで、何度か顔をあわせているうちに親しくなったのであった。
深い関係になったのも酒に酔ったあげく、弾みであったために、パリにいる間だけの遊びの関係ということで、お互い納得してつき合ってきたつもりであったし、それで良いと自分でも思っていた。
ところがいつの間にか長田は、それだけの関係の存在ではなくなってしまっていたのである。それにこんな事態になって始めて気がつくなんて、伊織は少しも成長していない自分を情けなく思うのであった。
長田と一緒に過ごすのは非常に楽で、休みの時など一日中、別に話をするでもなく、お互いが好きなことをして部屋でゴロゴロして過ごすことが多かったが、彼のことを邪魔だなんて感じた事は一度もなかった。
正直なところ、伊織にとって長田は失恋後、一番興味を持ち、好きになった男であるわけなのだが、そんなつもりが全然ない元々ノーマルな男に、いくら本気になったところで仕方がないと、最初から分かっていたので、心地よい割り切った関係で良いと思うようにしていたのだ。この関係が続くならば多くは望まないと。
(ああ、俺、長田さんの事が好きだ!!)
その気持ちに既に気づいてはいたけれど、言葉に出していう気などサラサラなかった。が、こんな風にあっけなく終わりが来てしまうとは、予想外であった。
伊織は不意に歩みを止めた。
(会ってどうしようっていうんだろう)
『天吉』の女将さん達には転勤の話をしながら、同じ日の夜、電話した自分にそんな大切な事を話さなかった長田に、恨みつらみをぶつけてみたって、嫌われるだけということに気づいたのである。それでは今までの楽しい関係さえも台無しになり、長田にとって自分が忘れたいほどの嫌な思い出になってしまうのが、もっと嫌なことに思えたのである。
カッと頭に血が上って、裏切られたような気になって、腹をたててみたけれど、彼とは最初から特別な関係ではなかったのである。
(あ〜あっ、俺、何やってるんだろう)
仕事は怖いほどに順調で、一生懸命努力した分、確実に報われているけれど、恋愛に関しては最初の失敗が後を引いて、進歩するどころか、泥沼に沈んでいるという感じの自分の不甲斐なさを痛感する。
情けなさにハ〜ッと溜息をついて、頭を上げると、目の前には長田の住むマンションが見えた。5階の左から二番目の部屋。明かりがついていた。
それを確認しただけで、彼の存在を身近に感じて、心の中にじんわりとした暖かいものが広がっていく気がした。すると無性に彼に会いたくなってしまうのであった。
(ああ、長田さん、会いたいよ)
もう二度と会えなくなるよりは、また次に会った時に笑って話せるそんな関係でありたいと伊織は願った。
自分から彼を嫌いになるなんて事は、決してあり得ないし、許されるのならば,また会ってもらいたい。しつこくしたりしないから、せめて友達のままでありたいというのが、伊織の本音であった。
(未練かな・・・・・・)
自分でも情けないことは分かっていたが、それでも伊織は自分の心に素直に従って、歩き始めた。
長田に会うために・・・・・・。
続く
作品解説
この作品は、1999年夏コミに出したコピー本を大幅改訂、加筆した真田みのこのオリジナルJUNE小説であります。
かなり気に入ったキャラでありまして、出来れば少しずつですが、お話を連載していきたいと思っております。宜しくおつきあい下さいませ。
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