2001年1月21日 更新

 香港島中環は、香港経済の中心地であり、その勢いを競い合うかのように高層ビル群が立ち並んでいる。
 中でもその一等地に本社ビルを擁する『東海公司』は、香港経済界の中でも急成長を遂げた企業であり、社長のビンセント・青は、中企業とも言えなかった『東海公司』を社長に就任してから瞬くのうちに、一流の大企業へと発展させた有能な青年実業家として注目されているが、一方でまだ三十代前半という若さで数百億香港ドルの財産を手にした人物としてだけでなく、その端正な容貌と、まだ独身であるという付加価値もついて、香港上流階級の女性達の話題の中心人物となっていた。

 今、彼は愛車のロールスロイス・スピリッツの後部座席に座り、きっちりと締められたネクタイを緩めながら、フ〜ッと一息つくのであった。いつもの紺色のスーツと違って、今日の彼の出で立ちは、黒のスーツであった。
 取引のある会社社長の葬式に参列した帰りであり、疲れたというわけではなかったが、まだ若い三十代半ばの社長の死は、その人柄と才能を知っていただけに、悔やまれるのものであった。

 (人の死など腐るほど見てきたというのに)
自分に言い聞かせるように彼は心の中で呟いた。だが、分かっていながらも割り切れない感情という不可思議なものが心の中に存在する事を、彼はまたよく知っていた。
 特に最近、工藤 秋生という愛しい存在に巡り会ってからの彼は、以前の冷静沈着さを失って、自分がこれほどの情熱家であったのかと呆れ果てるほど、激しい感情に翻弄され、自分を見失ってしまうという前代未聞の状況になることもしばしばであった。

 そして、今日のように人の死に接した時に、その大事な秋生という存在をいつの日か失ってしまう事実に恐怖し、いつまでもこの幸せが永遠に続いて欲しいといった、まるで子供のような愚かな夢を望んでしまうのである。
 5000年の時を生きてきた青龍という本来の姿も、黄龍の眠りを守るという使命も記憶も、過去の全てが今の一瞬の時の輝き、大切な存在の前には何の意味も勝ちも持たないことに気がついてしまったのであった

 「社長、お疲れになりましたか?」
溜息をついたまま沈黙してしまったビンセントを心配して、助手席から秘書の廖が声をかけてくる。
「いや、ちょっと考え事をしていただけだ。廖、葉コーポレーションだが、後継者によっては早めに手を引いた方が良いかもしれない。あそこの古くさい体質が折角、ロナルド・葉社長に酔って改善されて発展してきた矢先のこの不幸によって、また以前のような一族支配に戻るようであれば、あそこは五年も持ちはしないだろう」

 先程参列した葬儀で感じた人間模様の醜悪さに、ビンセントは葉という会社の体質と限界を見たような気がした。
 お悔やみを述べた未亡人の涙にむせび泣く姿への違和感。自分に向けてはならない未亡人の情欲をの光を浮かべた媚びたような眼差し。全てが偽りに包まれていた。少なくともなくなったロナルド・葉社長は信頼に値する人柄であり、彼の余りにも早すぎた死が惜しまれて仕方なかった。

 「分かりました。葉コーポレーションの後継者が決まり次第、検討いたします。今のところはなくなった社長夫人が有力だそうで・・・・・・」
「ならば考え物だな、あれでは」
喪主であったはずの夫人の、一見、夫を亡くして涙を流す健気な妻を演じていた白々しい姿に感じた違和感と嫌悪感を隠そうともせず、それを率直に口にするビンセントに苦笑する
廖もそれが間違いだとは否定出来なかった。ビジネスに同情は禁物であったが、同情に値しない才能のない人物への評価は、シビアな程間違いはないのである。


 ビンセントを乗せたロールスロイスが、中環の『東海公司』のビルの前に滑り込んでくる。その豪奢な玄関の前に車が着くやいなや、幾人かの社員が並んで出迎えた。
 一足早く先に降り立った
廖が後部座席の扉を開き、ビンセントは車から降りる。迎えでた社員達は、彼に恭しく一礼すると、口々に報告を開始する。
 彼らに指示を与えながら歩き始めたビンセントは、不意に怪しげな気配を感じ取って立ち止まった。彼を取り巻いていた社員達が何事かと一緒に立ち止まるのであった。


 その黒い人影は、ピルとピルの狭間の植え込みに、蹲るようにして、ある人物をじっと待ち続けていた。
 やがて、大きな立派な車が玄関の前に止まり、中から黒い服を着た乙子出てきた。銀色のフレームの眼鏡をかけたスラリとした端正な容貌の人物であり、その彼をビルの中からでてきた男達が恭しく出迎える。

 (アノ人だ。見ツケタ)
植え込みを飛び出して、目指すその相手へと迷わず一直線に駆け寄る。
(見ツケタ、会イタカッタ)
 彼がその涼しげな瞳で自分を見つめる。すると、体中の血が沸き立つような興奮を覚えた。彼を取り巻く男達がザワッとざわめくと、彼を守るように取り囲もうとする。だが、その隙間をかいくぐり、一気に彼へと飛びついた。

 「パパーっ、パパ、パパーっ」
喜びを身体全部で表わして、背の高い彼に必死で縋り付いた。ずっとずっと会いたかったパパ。一度も会ったことがなくて、ママに話を聞いていたとおりのハンサムで素敵なパパ。
 「パパ、キャンディよ。会いに来たの。ずっと会いたかったの」


 小さな女の子であった。肩まで伸ばした金色のフワフワの巻き毛と、透き通るような青い瞳。まるで人形のような色白の肌をした、それは可愛らしい子供であった。ピンク色のワンピースに白い靴下と赤い靴は、埃で少し汚れてはいたけれど、その愛くるしさを少しも損なう事はなかった。歳は四つか五つぐらいだろうか。

 廖は驚くべき光景を目にして、凍りついていた。周りにいる社員の誰もが、声を発する事も出来ずにただ立ち尽くしている。
 いつかこのような日が訪れるのではないかと心の奥で危惧していた自分の予感が、ついに現実となってしまった事を嘆き、気づかないでいた事を後悔していた。これは、秘書たる自分のミスと言っても良い。

 社長のプライベートに関しては、あくまで知らぬ存ぜぬの態度をとおしてきたが、金持ちで有能でハンサムな独身男性への女性の誘惑が頻繁にあり、それを楽しんでいた様子ではあったものの、仕事にプライベートを一切持ち込まない主義の社長を信頼していたのだが、この始末。

 付き合っていた(それは恋愛というよりもあくまで割り切った大人のつき合いであったが)女性の名前はそれとなくチェックするようにして、把握していたつもりだったのだが、ついに恐れていた最悪の事態が起こってしまった。
 今日中には、この事は香港中の知ることになるだろう。別に知られたところで、それが仕事に、会社に対して何だ害する事にはならないかもしれないが、当分の間、マスコミに追い回されることは間違いないだろう。

 ここしばらくは、そう、日本の知り合いだという工藤 秋生という若者が
香港を訪れて以来、どういうわけか社長の大人の遊びが影を潜め、安心していたのもつかの間の大ドンデン返しであった。
 茫然と立ち尽くす廖の頭の中に、明日の朝刊の見出しが浮かび上がって、グルグルと回り始める。
 《ビンセント・青に隠し子現る》
 《白昼、『東海公司』を隠し子襲撃》
 《ついに年貢の納め時か!!ビンセント・青の乱れた愛と性》
 《母親は誰か!?ビンセント・青の華麗なるラブ・ゲームの終焉と過去の女達》


 (パパ、パパというのは、父親のことだな?)
聞き慣れぬ単語に、一瞬、その意味を確かめて、ビンセントは自分の足に縋り付いている金色の巻き毛の女の子を見つめた。
 (パパというのは、私に言っているのだろうか?)
人は窮地に落とされると妙に冷静になる場合があると言うが、今の自分がそうなのだろうかと漠然と他人事のように考えていた。満面の笑顔で自分に会いたかったと訴える女の子。

 (何かの間違いであるとは思うが、いや、もしかして、万が一。いや、そんなミスをこの私が犯すわけはない。だが、しかし、この子は何故私をパパと呼ぶのだろうか。私に金髪、青い目の女友達はいない。事はなかったな。あれは確か、何という名前だったか。キャサリン、マチルダ、デイジー、それから・・・・・・)
幾人かの候補の名前を思い出してみるが、それでもやっぱり自分がミスをしたはずはないと言う強い思いに、それらを振り払った。

 「お嬢ちゃん、私が君のパパだと言うのかい」
身を屈めて、ビンセントは穏やかに余裕を漂わせて女の子に尋ねた。
「あたし、キャンディよ、パパ。会いに来たのよ、パパ」
絶対間違いないとばかりに言い切る女の子が、ビンセントの首に小さな腕を回して縋り付いてきたので、ビンセントは仕方なく軽い気持ちで、彼女をそのまま腕でヒョイと抱き上げるであった。

 「パパ、パパ」
喜びの声を上げて、甘える女の子の姿に、
「おお〜っ」
と、周囲から明らかに動揺した声が漏れる。何事かと見回せば、誰もの視線が自分と女の子の間を行ったり来たりしている。

 「どことなく面立ちが似ている」
「やっぱり」
無責任な言葉がまことしやかに囁かれていた。
 (これはまずい)
ビンセントは焦りを隠して、キャンディと名乗る女の子に告げるのであった。

 「お嬢ちゃん、残念ながら私には君のような可愛い女の子を子供に持った記憶がないのだけれど・・・・・・」
「あたし、キャンディよ、パパ。どうして嘘つくの」
「嘘じゃない。私には子供はいなーっ」
子供言うことだとは分かっていたが、男の沽券にもかかわる事なので、ハッキリさせねばと強い態度にでたのだが、キャンディの大きな瞳に、みるみる涙が浮かぶのを見て、言葉を失うのであった。

 「どうして、どうして嘘つくの。パパはあたしが嫌いなの?やっと会いに来たのに・・・・・・。エッ、エエンッ、ヒック、ヒック」
泣きじゃくり始めたキャンディにビンセントは動揺したがネこればかりは曲げられないと彼女の頭を撫でながら、言うのであった。

 「本当に違うんだよ。きっと人違いだ」
「ウワァーン、パパの馬鹿〜っ」
ついに大声で泣き始めてしまったキャンディにネ通行中の人々が何事かと立ち止まり始め、忽ち人垣が出来てしまった。

 泣く子には勝てないと言うが、こんな経験は青龍として5000年生きてきて、全く始めてのことであり、ビンセントはどうしていいのか分からないままに、救いを求める視線を
廖に向けた。彼ならば自分の無実を信じてくれるだろうと思ったのだが、廖の自分を見つめる視線には険しいものがあった。

 「社長、ここではまずいかと思われます。とりあえずビルの中ヘ。それから落ちついて話し合いましょう。母親の事もありますし、今後の事とかも冷静に対処しなくては」
廖、違うんだ」
「話は後でゆっくり伺いますので」

 どうやら真面目な秘書の誤解も解かねばならないようだった。周囲をチラリと見回したが、やはり自分への視線は冷ややかであり、冷や汗が背中を流れるのであった。
 「よしよし、泣かないで」
ますます激しくなっていくキャンディの泣き声に辟易しながら、ビンセントは宥める振りをして、『東海公司』のビルの中へと走り込むのて゛あった。

                                         つづく
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