
(3)
2000年2月12日
(ビンセントの馬鹿〜っ)
直通のエレベーターに飛び乗り、溢れてくる涙を腕で乱暴に拭ったけれど、すぐに目の前はぼやけてしまった。
金色の巻き毛の、まるで天使のように可愛い女の子を抱いていたビンセント。常日頃からビンセントのような素敵な人物が、自分のような何の取り柄もない人間を愛していると言ってくれることが不思議でたまらなくて、いつの日にか飽きられてしまうんではないかという不安をかかえ、それでも彼のことが好きで好きで、側にいられる事だけで幸せなんだと思い込む事で不安を消し去ろうとしたのだけれども、こんな形で現実を知らされるとは思ってもみないことであった。
(ビンセントに子供がいたなんて。もう、側にいられないよ)
秋生の頭の中には、先程の光景、幸せそうに寄り添う父と子の姿がハッキリと焼き付いて、放れなかった。
一階に辿り着いたエレベーターの扉が開くと、秋生はこの場から、辛い現実から逃げ出そうとしてロビーに走り出た。そして、そのままいつもと違って妙にざわついている『東海公司』の玄関を飛び出して、表へと飛び出るのであった。
「おい、坊や、どうした」
いきなり腕を掴まれて、行く手を阻まれる。誰だと恨めしげに振り返って見た秋生の、涙で霞んだ視界に、ヘンリーの姿を認めるのであった。
「ヘンリー?」
「おい、どうした。泣いているのか?」
「ヘンリー」
何かを言おうとするのだが言葉が出ずに、我慢していた分の涙が一気に吹き出してしまう。
「ヘンリー」
秋生は彼の逞しく広い胸の中に飛び込んで、思いっきり泣きじゃくるのであった。
「見ちまったのか?」
「うん。金髪の可愛い女の子だった。ヘンリー、知ってたの?」
「いや、俺も先程知ったところだ。なあ、坊や。もし、まだ彼奴のこと少しでも愛してるんなら、信じて待ってやってくれないか。今は辛いかも知れないが、彼奴なりにちゃんとした答えを出すと思う。俺が言っちゃなんだが、彼奴は本気で坊やの事を愛してると思うぜ」
ヘンリーの静かな言葉に、秋生はハッと息を飲むのであった。
「本当?」
「ああ」
ヘンリーのその返事に、秋生は分かったとコクリと頷いた。先程まであれほど揺れ動いていた心が、今は何故だか落ちついていた。
ビンセントに子供がいたという事は確かにショックであったが、だからといってそれで彼のことが嫌いになるかと言えば否であった。自分がビンセントの事を好きなのは何があろうと間違いなく、自分の愛している人の過去にたとえ何があったとしても、今の彼が好きなのであるから、その大好きな彼を信じられないのでは、自分の彼への気持ちが何だかとても薄っぺらいもののように思えたからである。
そして、悔しいけれど誰よりもビンセントの事を知っているだろうヘンリー。同じ聖獣として5000年の時を過ごしてきた仲間である白虎が言うのだから、こんなに心強い言葉はなかった。
(そうだ、こんな時こそ信じてあげなくっちゃいけないんだ)
「ありがとう、ヘンリー。僕、ビンセントの事信じてるから」
「ああ、そうしてやってくれ」
ヘンリーは健気に笑ってみせる秋生の睫を濡らす涙を指でそっと拭い、大きな手で優しく頭を撫でる。
この愛すべき存在。単純で素直で可愛すぎる黄龍の転生体である秋生を守るという使命を与えられた自分を、ヘンリーは誇らしく思うのであった。
ヘンリーはおもむろに携帯電話を懐から取り出すと、恐らく今頃秋生の事を心配してやきもきしているだろうビンセントへと連絡するのであった。
【もしもし】
少し慌てた様子のビンセントの声に内心苦笑しながら、明らかな動揺を隠せずにいる長年の仲間へ告げるのであった。
「俺だ。今、坊やと一緒にいるから安心しろ。とりあえず家へ連れて帰るが、お前も、帰ってくるまでには、ちゃんと筋の通った話ができるようにしておけよ」
【分かった。すまん。秋生を頼む】
「ああ、しっかりな、パパ」
【・・・・・・】
ヘンリーの嫌みに沈黙してしまったビンセントの嫌そうな顔を想像して、ヘンリーはニンマリと笑った。その隣では、鳴いたカラスがなんとやらの秋生が、クスクスと笑っていた。
「酷い〜っ、可哀想〜っ」
秋生は気持ちに余裕が出来た分、冷静に彼らの会話を受け止め判断する事が出来るようになっていた。
ビンセントとヘンリーの長年の友情と言うにはいささか屈折した言いたい放題の、しかしそれはお互いの全てを把握しあい、認めあっているからこそ出来る、形を変えた《友情》だと言うことが分かっていたからである。
そもそも、自分の事を心配して駆けつけてくれたであろうヘンリーに感謝こそすれ、とやかく言う資格など自分にはないのである。彼にもし会わなければ、自分はビンセントへの愛を見失ってしまっていたに違いないのである。
「ありがとう、ヘンリー」
彼への感謝の気持ちが素直に言葉になっていた。
「よ・よせやい、坊や。まあ、たまには彼奴の困った顔ぐらい見せてもらわないとな」
そのサングラスに隠された瞳の優しさと頼もしさとシャイさに、心が安らぐのを感じて、秋生はニッコリと彼へ微笑んで見せるのであった。
ヘンリーの連絡で、秋生が彼と共にいることを知らされたビンセントは、ホッと安堵の溜息をついた。
なんという厄日なのだろうか。目の前では自分を父親だと言い張る子供が、廖に機嫌を取られながら、ジュースとケーキを美味しそうに食べている。
先程、傷ついた秋生を目にした瞬間、心臓が破裂するのではないかと、思うほどのショックに襲われたのであった。
そして、目が覚めたのである。余りのことに冷静さを失い、おろおろと動揺してばかりで、本気になって真実を見極めようとしなかった愚かな自分。そのせいで秋生を傷つけるという失態をおかしてしまったのである。だが、ヘンリーのきつい一言でビンセントは正気に戻ったのであった。
(今度ばかりはあれに感謝せねばな)
とりあえずは全てを知ることだと思った。すっかりいつもの自分を取り戻したビンセントは余裕の笑みを浮かべると、キャンディへと歩み寄るのであった。
「キャンディ、美味しい?」
「うん、パパ。パパも食べる?はい、あ〜ん」
スプーンにクリームをたっぷりのせて、ビンセントの前に差し出す。
「あ〜ん」
(ううっ、秋生のためにも我慢せねば)
ビンセントはグッと堪えると、それを口にするのであった。
「うわぁーっ、パパ、美味しい?」
「ああ、キャンディ」
ビンセントの苦悩をよそに、彼女は大喜びであった。
「パパ、キャンディの事、好き?」
恐る恐る伺うような視線で、心配そうに見つめて来る彼女を安心させようと、ビンセントは大きく頷いて見せるのであった。
「ああ、もちろんだよ。会いに来てくれて嬉しいよ。本当はずっと会いたかったんだ」
その言葉に本当に嬉しそうに笑って、パパ大好きと縋りついてくるキャンディへの良心の呵責はあったが、何としても真実をつかまねばならないのであった。
「キャンディ、ママはどうしたのかな?早くママにも会いたいんだけどな〜っ」
五歳の子供といえども、やっぱり女である。ハンサムな憧れのパパであるビンセントに優しく微笑みかけられて、今までのつれない態度を疑いもせずに、話し始めるのであった。
「ママは知らないおじさんとお話があるからって行っちゃったの。ここにいたらパパが帰ってくるって。パパって会社の社長さんていって、とっても偉い人で、大きな車に乗っていて、とってもハンサムで素敵だからすぐ分かるって言ったの。キャンディすぐに分かったわ。本当に素敵なんですもの」
「ありがとう、嬉しいな。キャンディもとっても可愛いよ」
言われてパーッと頬を染める彼女の金色の巻き毛を優しく撫でるのであった。
「ママが言ったんだ。会社の前で待ってるとパパに会えるって」
「うん、そう。キャンディね、ママと飛行機に乗って、パパに会いに来たの」
「遠くから会いに来てくれたんだね」
「うん」
「ママは何処に行っちゃったんだろう。早く会いたいな」
「えっと、これ。パパにってママが」
キャンディが思い出したようにゴソゴソとドレスのポケットから小さく折り畳まれた紙切れを取り出す。それには走り書きの文字があった。
もっと早くに見せてくれればと心の中で呟きながら、ビンセントはそれを急いで読むのであった。
英語でそれは、『キャンディス・スミス』と書かれてあった。その側には電話番号らしき数字も書かれてあった。
ビンセントは側で様子を伺っている廖に目で合図すると、そのメモを渡すのであった。そして、廖は受け取り、頷くとそっと部屋を出ていった。貴重な手がかりであった。
「キャンディスが本当の名前なんだ」
「うん。でも、みんな、キャンディって呼ぶの」
「そうか。ママはパパの事、他に何か言ってた?」
「ううん。ずっとあたしにはママしかいないんだと思ってたもん」
「寂しかったね。御免ね」
「ううん。だって、こうしてパパに会えたもん」
ブンブンと頭を横に振って、寂しくなんかなかったもんと否定した後、甘えて腕に縋り付いてくるキャンディの様子に、ビンセントは彼女を心から可愛いと思うのであった。
(この子はどうやら私のことを本当に父親だと信じているようだ。もし、何か作為があって父親だと言い張るのであればただですまさないのだが・・・・・・)
無邪気に甘えてくる彼女の可愛さに絆され始めている自分に、ビンセントは苦笑いを浮かべた。彼女の父親でないという事は99パーセント間違いなかったが、残り1パーセントはまだ否定出来ないので安心するのは早かったが、間違いであることは確定的であった。が、秋生へのいいわけとしては、まだ不十分であり、唯一の手がかりである電話番号らしき数字への期待するのであった。
つづく
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