亜州王国物語

 DORAGON

2002年5月31日 更新
(2)

 パチパチと音をたてながら燃える薪の音と、赤い炎の揺れる影。そして、火にかけられた鍋の、グツグツと煮えたぎる音と共に漂ってくる美味しそうな匂いに、彼の寝ぼけてぼんやりとした頭は、それでも反応して、酷く空腹である事を自覚した。
 だが、身体は鉛のように重くだるくて、まだしばらくはまどろんでいたいと願っている。

 (おなか空いた・・・・・・)
薄目を閉じて、クンクンと鼻を動かし、匂いの正体を確認しようと試みる。だが、それは彼の空腹感をより促すだけとなってしまった。
 煮込まれて肉の甘い匂いに、香辛料が混じって、なんとも言いがたい香りとなって食欲をそそる。ゴクリと喉を鳴らした秋生は、耐え切れず再び目を開くと、身を起こそうとした。が、手足は思い通りに動かず、つっぱった手足もすぐに力尽きて、ガクリと布団へと倒れこんでしまった。

 (どうしたんだろう、身体が動かない!?)
信じられない思いを打ち消そうと、彼は再び試みた。うつ伏せになった身体を両腕を支えにゆっくりと引き起こす。特に下半身が重くて、力が思うように入らない。引きずるようにして上半身を起こすが、ズルリと手が滑って、支えを失った身体はバランスを崩して、ベッドから落ちて、床へと転げ落ちてしまった。

 「つぅっ、痛い!!」
身構える事も出来ずに打ち付けた足腰や肘の痛みと、冷たい石の床の感触に、秋生はブルッと身を震わせた。

 (どうして・・・・・・)
思うようにならない身体。こんな事は始めてであった。床についたところから急速に熱が奪われていくのを感じながら、何故だかむしょうに情けなくなり、鼻の奥がツーンと熱くなって涙が零れそうになって、顔を左右に小さく振って誤魔化した。そして、今一度起き上がろうと、手を冷たい床へとついてみる。

 「無茶をするな!!」
低音の男の鋭い叱責が響き、ハッと身構える暇もなく、近づいてきた人影に秋生の身体は抱き上げられていた。

 「あっ」
薄い寝着を通して感じる相手の思いがけない、逞しく広い胸の暖かな感触に、紅潮して激しくもがく秋生の、驚きと羞恥に動じる様子もなく、その男は彼の身体を元のベッドの上へとそっと横たえた。そして、彼と共に落ちていた毛布を拾って、軽く叩くと、広げて秋生を優しく包む。
 いつしか抵抗を忘れ、なされるままになっていた秋生は、ハッと我にかえり、自分を無言のうちに世話してくれるその人物をまじまじと見つめた。

 その人はかなり長身であった。自分よりも頭一つは高いだろう。漆黒の美しい髪を無造作に後ろで束ねている。洗いざらしの白いシャツと茶色の革のズボンに黒のブーツという質素な服装で、歳は二十代半ばくらいであろうか。

 だが、その完璧なまでに整った容貌に、秋生は言葉を忘れて見惚れてしまうのであった。女性的な美しさとは全く違った、男性的で剣の歯のような鋭さを秘めた完璧な美貌。感情の激しさや思いの全てを隠した鉄壁な無表情でありながら、神々しいまでの気品と神秘的な輝きを携え、澄んだ茶色の瞳には、理知的な光が宿っていた。が、どことなく寂しげな影が漂っており、その思いの深さを無言の内に語っていた。

 (き・綺麗だ・・・・・・)
息をつくのも忘れて、ただ見惚れていた。
 その茶色の瞳が、自分をまっすぐに見つめた瞬間、秋生は自分の心臓がドキンと大きく打ち、頬が紅潮するのを感じた。

 「あ、あのっ」
焦って思うように言葉が出てこない.ますます動揺していると、その人の硬い表情が一瞬、和らいで、口元に優しげな微笑が浮かんで消えた。
 (うわあっ!!)
思いがけない表情にますます目が離せなくなり、同時に、ドキドキと未だかつてないほどに鼓動が早まるのであった。

 「十日も眠り続けていたのだ。無理をするな」
低音の心地よい響きが、素っ気無く告げる。
「えっ、十日も!?」
「そう、酷い怪我だった・・・・・・」
そう呟いた男が不意に右手を伸ばして、秋生の額に張り付いた乱れた前髪を、思いがけないほどの優しさでかきあげ、そのまま頭を撫でる。だが、秋生はその心地よさに酔う余裕がなかった。

 (あっ、怪我!!そうだ、崖から落ちたんだ。盗賊に襲われて、足を踏み外して・・・・・)
記憶が段々と蘇ってくる。薄れいく意識の微かな最後に記憶は、秋生の大事な剣を何者かの手に取られ、それを奪い返そうとして・・・・・・。

 「あっ、僕の剣。剣が―っ」
秋生の悲痛な叫びに、美貌の男は慌てた風もなく、ゆっくりと部屋の隅に立てかけておいてある剣を指した。

 「あそこにある。そんなに大事なものなのか?」
「は・はい!!」
思わず行きこんで返事した自分の声の、余りに大きさに、急に恥ずかしさを覚えて、男の視線から目をそらし、小声で言い訳する。

 「剣のお師匠様から譲っていただいた大切な剣なんです」
「そうか・・・・・・」
「あ・あの、貴方が僕を助けてくださったんですね」
ゆっくりと視線を戻しながら、男の美しい姿を堪能する。
「・・・・・・」
答えは返らなかったが、間近いないと確信をもって、秋生は頭を下げて感謝の言葉を伝えるのであった。

 「ありがとうございました。もう、駄目かと思っていました」
秋生はあの時に感じた絶望感を思い出して、その忌まわしさに、知らず自分を両腕抱きしめていた。自分の夢も何もかもが失われてしまうと思った時の悔しさ。何で自分がこんなところで死ななければならないのかと恨んだ理不尽さ。
 そして、その最悪な事態から救ってくれた美しい人。
 自分は、今、こうして生きている。

 「本当にありがとうございました」
足変わらずの無表情で黙って立っている男に、再び頭を下げる。何度感謝しても、事足りなかった。そんな秋生に、男が告げる。
 「ほんのきまぐれだ」
きまぐれであろうがなんだろうが助けてくれた事には変わりない。秋生は頭を小さく横に振って、男の言葉を否定した。

 「それでも僕は助かりました。貴方は命の恩人です。このご恩は決して忘れません」
「気にすることはない・・・・・・」
男はそう素っ気なく言うと、クルリと背を向け、煮えたぎる鍋を日からおろして、木の粗末なテーブルの上へと置いた。

 秋生は男の気持ちが分からず、戸惑いを感じながらも、視線を外す事ができなかった。生活感を微塵も感じさせない男が、手慣れた様子で椀にスープを注ぐと、それを秋生に差し出す。
「腹が空いているだろうが、この十日ほどほとんど食べていない。まずはこれで我慢しろ」
食欲をそそる匂いを身近に感じて、忘れていた空腹感が一気に蘇る。と、同時に、腹がグ〜ッとないて、秋生を酷く恐縮させた。

 「い・いただきます」
秋生は椀を受け取りながら、心に蟠っていた疑問を遠慮がちに男に尋ねてみた。
「あの、お名前はなんとおっしゃるのですか?」
「ビンセント・青・・・・・・お前の名は?」
「秋生。工藤 秋生です」
「秋生・・・・・・歳はいくつだ?」
「15です」
ビンセント・青と名乗った男の眉があからさまにひそめられた。

 「15で一人旅?連れはいなかったのか?あの崖から落ちて、命があるのは奇跡だ。夜中に山道を歩くなど不用心すぎる」
男の批判めいた冷たい口調に、秋生は内心、少し傷つきながら、それを打ち払おうと、信心する亜州王国の守護神、青龍に恵みを感謝する祈りを捧げて、スープを一口すすってみた。熱くて舌を火傷しそうであったが、味は申し分なく美味かった。

 「美味しいですね」
と、笑顔で言ってみたが、ビンセントの冷たい視線は変わらなかった。
「殊勝なものだな。今更、青龍に祈ったところで、神など何の役にもたたないことは、承知しているだろう。秋生、神はとっくにお前など見捨てているのだ」
辛らつな言葉であった。

 だが、秋生は困惑しながらも、頭を横に振ると、柔らかく否定した。
「そんなことはありません。現に僕は今、こうして生きている。貴方が助けてくれました。たとえそれが貴方のきまぐれだったとしても、僕はただの偶然だとは思いません。僕の故郷の大和の村では、誰もが皆、守護神、青龍を信仰しています。凄い田舎で、冬になるとほとんど雪に閉ざされる山奥の厳しい自然の中で、何の力も持たない僕らが、それでも暮らしていけるのは、自然の豊かな恵みがあるからです。それらは偶然の産物ではありません。自然の厳しさの中で育まれた宝物なのです。そのかけがえのない自然、そして、恵みを与えてくれる神に僕らは感謝します。神は日常の生活の全てに、心の中に存在するのだと、村の司祭様はおっしゃいました。楽しいことばかりではなく、辛い事や哀しい事があるからこそ、生きる喜びを感じる事が出来るのだと。そして、僕もそうだと思います。神は何時も僕達と共に在られるのです」

 静かに語り終えた秋生に、ビンセントはやれやれとばかりにあからさまに肩を竦めて、溜息をついてみせたが、視線の冷たさは消えていた。
「口では何とも言える。信じられない。お前は何故、その大和を出たのだ。一人旅で、崖から落ちるなど神も大した試練をお前に与えたものだ。何度も言うようだが、お前を助けたのはちょっとした気まぐれであって、別に神に言われたからではないぞ」
ビンセントの皮肉に、だが秋生は笑って答えるのであった。

 「僕の旅の目的は、亜州王国の首都、香港で騎士になるためです。騎士になることは僕の小さい頃からの夢で、それがこの春、剣のお師匠の玄冥爺様が、騎士団長宛てに推薦状を書いてくださって、都で修行するようにと薦めて下さったのです。あの夜、峠の宿に泊まったんですけれど、同宿した商隊を狙った盗賊に襲われて、剣だけは持って飛び出して応戦したんですけれど、追われて、崖から足を滑らして・・・・・・」

 「わかった・・・・・・。スープが冷める」
感情の一切こもらない淡々とした言葉であったが、それでも秋生の心はどこかで救われたような気がした。
 「はい」
と、満面の笑顔で答えると、スープを一気にすすって火傷しそうになり、慌ててむせて噴出しそうになるのを、必死でたえるのであった。


                                    つづく
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