亜州王国物語

 DORAGON

2002年6月6日 更新
(3)


   輝きに満ち溢れたすんだ大きな黒い瞳と、輝く太陽の光を集めたような明るい茶色の柔らかな髪をした少年が浮かべた邪気のない微笑みは、ビンセントの冷たくとざれた曇天の心の中を、一陣の爽やかな風となって吹き渡り、空の隙間から差す陽のごとく、暖かな希望の光となって彼を魅了し、虜にするのであった。
 そして、彼の中で蟠っていた歪んだ思いを、その目映い輝きによって消失させ、遥か昔、希望に満ちていた頃の熱い思いを蘇らせた。

 (秋生)
その名を心の中で繰り返し呼んでみる。ほんの気まぐれで助けてみた人の子であったが、人の世を疎んで暮らしてきた彼の、長年にわたる暗い思いも拘りもなにもかも全てを、わずか十日の内に過去のものへと変えてしまったのだった。

 待ち続け疲れて諦めて、諦めきれず、何よりも大切なあの人の事をいつしか憎むようにさえなってしまっていた。どうしてこんなに苦しまなければならないのか。彼の最後の言葉を信じて、ただひたすら転生してくるその日を待ち続けた気の遠くなるような日々。
 だが、悲願はついに達せられたのだ。

 (黄龍殿、お待ちしておりました)
開かれたその黒い瞳からは、昨日までつきまとっていた死の影は完全に消えうせ、生の輝きに満ち溢れていた。表面上の怪我は、彼の手当てによってすでに跡形もなく消えていたが、失われた生命エルネギーだけは、簡単に補えるものではなかった。あくまで本人の生きようとする意志が何より大事で、必要とされるのだ。
 今、ビンセントは人の生の執着に深い感動を覚えていた。

 (このような愛らしい姿でいらっしゃるとは・・・・・・)
秋生の全てが新たな驚きと喜びとなって、彼の心を揺り動かす。
 暗闇に重傷を負って倒れていた哀れで儚げな姿。抱き上げた時の軽さと柔軟さと脆さ。そして、愛くるしい美しさ。素朴な暖かな心。

 世を捨て、森の奥深くで独り暮らしてきたビンセントの荒んだ心には、目映い光にも似た存在に感じられたが、惹かれてやまない心とは裏腹に、冷たい言葉しか吐けない屈折した自分がいた。

 秋生を傷つけてしまう愚かな、哀れな心。否、そもそも自分に暖かな心など存在したのか。自分のことを知らない秋生。ただ主であった人の言葉に従って、人の世を見守ってきた自分の苦悩の日々も思いも何も知らない事が、許せないでいる。彼が知るはずはない事を知っていながらの逆恨みにも似た心。傷つけるつもりはないのに、惹かれずにはいられない心と裏腹に冷たい言葉と態度で接してしまうのだ。

 だが、どうだろう。この光の存在は、辛らつな言葉に傷ついた風もなく、自分の気まぐれを感謝し、微笑み、髪の存在を説くのである、宗教家のおしつけがましい説教とは違った、日々の生活の厳しさの中に根付く、素朴な信仰心。彼でさえもそんなものが、この世にまだ存在する事が信じ難いというのに、少年はそれ心の底から信じきっているのである。

 (どういう育ち方をしたのだ)
さぞかし慈しみ愛されて育ったのだろうと思う。山奥の際佐奈村で、愛する人々に囲まれて、のびのびと夢を育ててきたのであろう。
 (今時、あの亜州の都で騎士になりたいなどと、誰が思うのだ)

 華やかなりし夢の都と謳われた聖地、香港。亜州王国の王宮と守護神、青龍を祭る神殿があり、王国中の人々にとっては、その障害に一度でも詣でるのが夢だと言われている。
 その昔、亜州王国を建国したラディス一世は、国中を荒らしまわっていた魔物達を討伐するために、古の神、青龍の恩恵を得ようと、香港の都に神殿を建て、亜州王国の守護神として祭る誓いをたてた。青龍はその願いに応え、王国の平安を約束し、王を助け、魔物達を退治したと語り継がれている。実際に、幾度もの近隣王国の侵略に屈する事もなく、平和で豊かな時を経てきた。

 だが、長い平和な時は、都を人の欲望という魔によって内部から侵していった。自分達が偉大なる神に守護されているという誤解のもとに、人は国の平和よりも己の欲望のみを追求し始め、悪徳の限りを尽くし、一方で神をたたえる事によって、その罪深さを誤魔化したのである。本来ならば人に神の心を説くべき神殿さえもが、今では金や権力に支配されていた。

 表面上は、相変わらず栄華を誇っているように見える都も、裏では一部の貴族や商人達が権力を支配し大きな財を成す一方で、多くの貧しい民達がその日暮らしの生活を送っている状態であった。王家は、唯のお飾りと化し、強大な力を誇った軍隊も騎士団も、今では名前だけの存在となっていた。

 秋生は恐らくその現実を知らないのだろう。遥か昔の、人々がまだ純粋な思いを抱いていた頃を夢見ているのに違いない。
 (騎士になりたいか・・・・・・まさに夢だな)

 現実を知った時の秋生の受ける衝撃を思うと、心に痛みが走る。だからと言って、その真実を告げることも、傷つける事にはかわりがないのだから、それも出来ない。
 (どうすればいいのだろう・・・・・・)
困惑するだけしか出来ない自分の無力さを思って、ビンセントは重い溜息をつくのであった。


 コツッ、コツッ
ビンセントがその腕に秋生を抱きかかえて、暗い石段をゆっくりと上がっていく。表の風に当りたいと言った秋生の願いに応じてくれたのであった。目覚めてから一週間瞬く間に過ぎ去り、秋生は日々元気を取り戻していった。今では自分の足でちゃんと歩く事も出来るのだが、無理してはいけないというビンセントに従ったのであった。

 父や兄達とは違った力強い腕であった。彼らに子供扱いされるのとはまた別の、守られ過保護なくらいに大切にされる事を、少しも鬱陶しいとか嫌だとかは思えず、心地よいとさえ感じてしまうのだ。

 寡黙なビンセントに対して、いつも一方的に話し掛ける秋生であったが、彼が無視する事無く、黙って静かに聞いてくれているのは明らかで、そのさりげない優しさが何故か嬉しくて、ずっと長い年月を一緒に過ごして来たような、根拠のない安心感を感じていた。

 前方の明るい空間が次第に大きくなり、やがて、二人はその空間にスッポリと包まれた。
 「うわあっ」
久しぶりの陽の光りに一瞬、視力を奪われ、秋生は無意識の内に、ビンセントの胸にしがみついてしまった。

 「大丈夫だ。何も心配はいらない」
なんでもないと安心させようとして静かに語りかけてくるビンセントに、恐る恐る顔をあげて、意味もなく怯え、甘えてしまった自分が急に恥ずかしくなって、身を捩って訴えた。

 「降ろして下さい」
「・・・・・・」
スッと地面に足がつき、柔らかな土の感触を素足に感じながら、秋生は久しぶりの外の空気を思いっきり味わうのであった。爽やかな森林の匂いと暖かな日差し。
「ああ・・・・・・」
思わず零れ出る感嘆の声。ニ・三歩ゆっくりと歩みだした後、興味が先に立ち、早足で周囲を歩き回った。

 森の中に僅かに開かれた空間。人の手の入った大きな石が無数に転がり、風化し始めている。それらの中には、文字や絵がかかれたものがあり、秋生はなんとか読み取ろうとしたが、古い文字で理解し難く、その内、諦めてしまった。

 「う〜ん、駄目だ。読めない。でも、神殿じゃなかったのかな」
雑草や蔦があたり一面に繁殖し、自分達が今、出てきた所は、それらに覆い隠されるようになっている。鳥のさえずりと獣の鳴き声が、四方から無数に聞こえてくる。周囲は丈高い木々が立ち並び、まるで自然の要塞に囲まれているという感じであった。

 (ビンセントはここでずっと独りで暮らしているのかな)
故郷の大和は小さな村ゆえに、顔を知らないものは誰もいないといった環境で、大勢の人々に囲まれて賑やかに暮らしてきた秋生には、とても考えの及ばない事であった。

 やがて、久しぶりに動き回って少し疲労を覚えた秋生は、大きな石の上にもたれかかるように座り込み、ビンセントの姿を探した。先程まで確かに其処に立って、自分の様子を見ていたと思ったのだが、気がつけばその姿が消えていた。

 ザワザワと木々が風に大きく揺れた。鳥のさえずりも消え、静寂が訪れる。先程までと何゛たか割らぬ風景なのに、秋生は急に寂しさを覚えるのであった。
 (ビンセント、何処?)
一人取り残されてしまったような不安が、大きく心の中を占め、心細さにその人の姿を捜し求める。

 (どうして?なぜ?こんなに弱くなってしまったのだろう)
不思議なほど弱気で、彼という存在を頼りにしてしまっている自分を感じていた。
 故郷にいるときは、歳が離れて既に成人している腹違いの三人の兄達に子供扱いされることを屈辱とし、意地をはって同等であろうとして、歳相応からすればしっかり者で、結構なんでもそつなくこなしていた自分からは、考えられないほどに脆くなってしまっている。ビンセントに甘える事が嫌ではなく、守られる事が心地よくさえ感じられるのだ.

 「ビンセント・・・・・・」
それでも探さずにはいられず、気がつけば声を出して叫んでいた。
「ビンセント・・・・・・」
静寂の中に溶け込んでしまう叫び。冷たい風が吹き抜けて、その寒さに秋生は身を震わせた。

 「どうかしたか、秋生」
背後からその静かな声を耳にして、秋生はハッと振り返るのであった。
 両腕にいっぱいの果物を抱えて、変わりのない表情で自分を見つめる彼がいた。その姿にホッと安心したとたん、涙が零れそうになり、秋生は唇を噛み締めると、自分の動揺を知られたくなくてプイッと視線をそらして俯いた。損な態度とは裏腹に、心臓の鼓動はドキドキと高鳴り始める。半泣き状態の自分を彼に見られたことがたまらなく恥ずかしく、いたたまれなかった。

 「具合が悪いのか?」
冷静に尋ねるビンセント。
 (寂しかったなんて・・・・・言えない)
秋生は俯いたまま、頭を横に振って応えるのであった。

 「秋生」
名前を呼ばれて、恐る恐るゆっくりと顔を上げる。見れば間近にビンセントの顔が近づいていた。吸い込まれそうなほど澄んだ深い瞳から目が離せなくなり、ボーッとしている内に、秋生の唇を暖かで柔らかな感触が掠める。

 (あっ!!)
我に返り、真っ赤になって抗議しようとして言葉にならず、口をパクパクさせる秋生に、何もなかったように平然と見返してくるビンセント。その冷静さが癪に障って、ムッとして睨みつけると、彼の無表情な冷たい美貌が和らいで、微笑が浮かび上がった。

 「元気になって良かった」
「うん、ありがとう。ビンセントのお陰だよ」
まだ唇に残っている暖かな感触を手でなぞりながら、秋生は全てを忘れて、ビンセントの微笑に見惚れてしまった。

 (ビンセントの事、好きだ・・・・・・)
自分の心の中の初めての感情を、秋生は自覚するのであった。

                               つづく
(4)に進む

トップに戻る