亜州王国物語

 DORAGON

2002年7月8日 更新
(4)

 陽の光りに包まれた柔らかな明るい茶色の髪が、王冠を戴いたように、眩しいくらいに輝いていた。そして、白い寝着で裸足のまま辺りを駆け回るその姿は生命力に溢れ、しなやかな獣のようであった。好奇心に輝く大きな黒い瞳は、小動物の愛らしさに似てね興味深げにクリクリと良く動き、ビンセントにとっては見慣れた風景を心のそこから楽しんでいる。
 そんな秋生の様子を暫く見つめていたビンセントは、やがて、動き回って腹をすかせるだろう秋生のために、食べ物を用意しておこうと、森の中へと入っていった。

 人のために何かをする事が、少しも苦にならない。むしろ、する事が楽しくてたまらないのだ。否、正確に言うなれば、秋生の喜ぶ顔が見たいがためであった。ただその笑顔のために、自分でも愚かだと思うほどに、甲斐甲斐しく世話をするのである。そして、秋生がそれを素直に受け入れてくれる事が、彼の行動を増長させていた。
 (まるで雛に餌を運ぶ親鳥のようだ)
と、彼は苦笑するのであった。

 その時、
(ビンセント・・・・・・)
微かに耳を掠めた自分を呼ぶ声がした。想いが過ぎた盛夏と溜息をついて聞き流す。
 (ビンセント!!)
心細い不安を含んだ呼びかけであった。考える間もなく、彼はその声の元へと急いだ。

 「ビンセント・・・・・・」
愛らしい顔に不安を宿して、自分を捜し求めて叫ぶその姿を見つけた瞬間、彼は自覚せざるをえなかった。
 (秋生を愛している)
駆け寄って後ろから強く抱きしめたい衝動を抑えながら、ビンセントは声をかけた。

 「秋生」
その声に弾かれたように自分を見つめる秋生。涙に潤んだ瞳は自分を認めた瞬間、大きく開かれ、そして、涙が今にも零れそうになった。
 愛しさがこみ上げてくる。

 だが、当の本人は、波べそをかいている姿を見られた事を恥じて、形の良い唇を噛み締めると、プイッて視線をそらせて、俯いてしまった。そんな、クルクル変わる表情の一つ一つが愛しかった。

 「具合が悪いのか?」
そうではない事は分かっていたが、心に反して意地の悪い言葉を吐いていた。
 (私を探してくれた。求めてくれたのだ)
だが、それを秋生の口から直接聞きたいと思った。その存在を自分のものにしたいと、心底欲求していた。

 「秋生」
そっと近寄っていた。そして、気配を感じて顔を上げた秋生の唇を、衝動的に掠め取っていた。その甘さに蕩けそうになりながらも、突然の事に怒る秋生を慈しみのこもった瞳で見つめた。
 (愛している)
口に出していえない言葉を心の中で幾度もそう呟いた。

 「元気になって良かった」
崖から落ちて重傷を負い、死の淵をさ迷っていた哀れな子供は、もういなかった。今、自分の目の前にいるのは、生命力に溢れた愛しくも美しい彼の想い人であった。

 だが、彼の心を受け止めるにはまだ幼く、そして、未来があった。世捨て人の自分とは違い、騎士になるのが夢と語った時の、秋生のうっとりとした瞳を彼は知っていた。いつまでも、ここに引き留めておくことは出来ないだろう。旅たちはそう遠くない。その時、自分は見送る事が出来るだろうか。否、出来るはずがない。猛こんなに魅せられている。誰かと一緒に暮らすことに慣れ始めた自分が、一人になってどうすればいいのだろうか。

 (そうだ。眠ればいい。眠ってしまえば何も思い煩う事などない。いっそこれさえも幸せな夢なのだと思えばいい。夢ならば覚めても仕方のない事。泡沫の夢なのだ)
自分に言い聞かせる。だが、違う自分が悲鳴をあげた。

 (嫌だ。夢で終わらせるものか。何処にもやらぬ。離さない。このままずっと一緒に在るのだ。腐りきった香港の都で現実に傷つく事よりも此処にいた方が、良いに決まっている)
傲慢な心。そして、彼は気がついた。彼が人の世を嫌って一人で森に暮らし始めた理由と、清い少年を汚し自分だけのものにしようという《欲望》に、目をぎらつかせている己の醜さに、何の違いがあるというのか。

 先程までの浮かれた気分は消え去り、重苦しい空気が、心を支配した。
 秋生と一緒にいる事が急に苦しくなった。それは秋生への想いが覚めたというわけではなく、その想いが募れば募るほどに、身のうちに宿る激しい情欲の炎が燃え盛り、それを抑える理性の糸の脆さを、自らが恐れたからであった。


 ビンセントの様子がおかしくなったのを、秋生は敏感に察した。以前にも増して喋らなくなり、黙って姿を消す事もしばしばあった。それでも変わらず秋生の世話は忠実だったが、二人の間にギクシャクした歪みが生まれるのに、時間はかからなかった。

 秋生は独りの時間を、剣の稽古に費やした。身体を動かす事で、もやもやとして晴れぬ心を誤魔化そうとしたのである。
 酷い怪我しビンセントの治療によって跡形もなく消え去り、秋生を驚かしたが、動きの取れなかった間に鈍った身体の調子を整えるのには、かなりの時間が必要であった。

 剣の師、玄冥老人から譲られた剣、ファルシオンは、ただでさえ彼の未発達な身体では、長時間持つ事がかなわない。弱った身体ではなおさらの事で、それを克服しようと、秋生は必死で稽古に励んだ。

 そして、日々少しずつ動きが戻るにつれ、秋生の亜州への夢が、再び大きく彼の心を動かし始めた。
 (騎士になるんだ。小さい頃からの夢がもうすぐ現実になる)
そう思えば、稽古の辛さなど微塵も感じなかった。

 事故から一月余りの時を経た頃には、いつでも旅立ちは可能な状態になっていた。が、心残りがあった。ビンセントである。森に独り暮らすその人を、残して旅立つことが躊躇われたのだ。

 今まで独りで暮らしてきたのだから、自分が去っても以前の生活に戻るだけなのだし、最近の素っ気無さはと気まずさは心に重いものではあったが、自分を助けてくれたその人のやさしさと暖かさは、分かっているつもりであった。自惚れではないが、彼を残して旅立つことで、何故か彼を傷つけるのではないかと、心配なのであった。

 その日も、朝からビンセントは何処かへ姿を消してしまっていた。目覚めればもういないのだ。だが、朝と昼の食事の用意が二食分なされていた。そして、いつも帰りは夕方。何処からか食料や衣服や本などを持って帰ってくる。黙ったまま食事をし、いろいろと訪ねる秋生の質問にも答える事無く、食事が終わると、部屋の隅に敷いた毛布の上に横になると眠ってしまうのだ。ベッドを彼に返そうと申し出たが、頑として拒まれ、申し訳ない思いを抱いて、寝付かれぬ長い夜を、ビンセントの持ち帰った本を読んで、秋生は過ごす日々が続いていた。

 「えいっ、とぉ〜っ」
掛け声をかけながら、剣を振る。ブンブンと唸る剣の手応えを両腕に感じながら、玄冥に教わった剣の型を何度も何度も繰り返し練習する。汗が動くたびに滴り落ちたが、それさえも剣を持っていると不快には感じなかった。

 躍動感と張り詰めた緊張感が一体となって心を刺激し、開放させ、何も考える事無く呼吸し、手足を動かす。ゆっくりと、そして、速く。陽を受け着せめく鋭い刃と、渡っていく風の爽やかさと森の匂い、鳥の声。自然とひとつになった自分。いきているという実感を身体と心で感じていた。

 秋生は研ぎ澄ませていた気をフ〜ッと息と共に吐き出しながら、構えていた剣を降ろして鞘におさめた。そして、両手で剣を空に掲げ、守護神青龍に祈りを捧げた。
 (守護神青龍の恵みに感謝を捧げます。今日の命をありがとうございます。我が剣が、少しでも貴方様に近づきます事を、お願い申し上げます)
頭を深く下げて、一礼した。

 漲っていた力がスーッと身体から抜けて、心地よい疲労感が残り、まだ荒い呼吸を整えながら、額に流れ落ちる汗を腕で拭い取った。だが、汗はまたすぐに浮かんでくる。秋生は杞憂劇に喉の渇きを覚えて、ゴクリと喉を鳴らし、ギラつく太陽を恨めしげに仰ぎ見ると、おもむろに、一本の森の小道を辿り始めるのであった。

 小枝のアーチをかき分けるようにして進むと、やがて目前が急に開けて、水の澄んだ泉が現れた。
 空を覆い尽くした高い木々の葉陰から洩れる陽の光が、幾つもの筋となって、その水面を照らし出し、渡っていく鈴やかな風と一緒になって、サワサワと煌かせていた。

 「ヒョオーッ」
秋生は歓声を上げ、剣を近くの岩の上に置くと、服を脱ぐのももどかしく、そのまま小走りに泉へと飛び込むのであった。

 バシャッ、バシャッ
汗をかいて火照った身体には冷たい水が心地よく、無邪気にはしゃぎながら、澄んだ水を浴びるように飲んだ。

 ビンセントにこの場所を教えられてから、剣の稽古の後は必ず訪れるようになっていた。地下からの湧き水で作られた小さな泉であったが、不思議な事に流れ出る川らしきものが見当たらず、溢れでるわけでもなく、豊かな水をたたえている。そこはかなり深く、魚達の姿もあって、勇汎用の魚を調達することもしばしばであった。

 秋生は息を思いっきり吸い込むと、水中に身を投じた。深く深く水底へと潜っていく。木洩れ日が屈折して、ユラユラと揺らめいていた。手頃な夕飯用の魚を探して、静かに泳ぎ回った。が、何故だが今日は一匹の姿も見当たらない。一度、呼吸をしに水面へ出ると、大きく息を吸い込んで、再び潜った。

 (どうしたんだろう)
生き物の姿のない水中き、いつもと違って静か過ぎた。幾度繰り返しても、魚は何処にも見当たらなかった。昨日は確かにあんなに沢山泳いでいたのに・・・・・・。何が不安というわけではなかったが、焦りにも似た気持ちで、必死に探し回るのであった。

 キラッ
泉の最も深いそこの薄闇の中で何かが光った。目ざとく見つけた秋生は気になって、近寄っていった。
 銀色の細い糸の束が、ユラユラと揺らめいていた。その糸に包まれて水底に横たわる人影。糸と想われたのは、その人影の長い髪であった。

 (ビンセント!?)
秋生の知る人とは異なった姿であったが、確かにその人に間違いないと思った。声にならない悲鳴をあげ、ショックに慌てて水を飲んでしまった秋生は、苦しさに喉を押さえた。とても息が続かない。だが、その人をそのままにしておけようか。一刻の猶予もない。一度水面に上がって再び潜る時間が、秋生は惜しかった。

 (無謀と勇気をはき違えるな)
歳の離れた兄達と張り合って、実力以上に無茶をする秋生を諭した父の言葉が蘇ってくる。
 (父さん、ご免)
それでもその人を見捨てておけなかった。

 張り裂けそうな心で、気力を振り絞って水底へ辿り着くと、力なく横たわる姿へ恐る恐る手を差し伸べる。
 (ビンセント)

 光もほとんど届いて来ない闇の中で、美しく揺れる銀色の髪に包まれて、静かに眠っているような穏やかな表情は、変わらず美しかった。人とは明らかに違う尖った耳も、細長い指の鋭い爪も、その美しさを損なう理由にはならなかった。

 (ああ、ビンセント)
ゴボゴボと泡となって零れていく息の限界。胸が押し潰されそうで苦しい。だが、その人を失ってしまったという喪失感にはかなわなかった。ただ、信じられない思いで、その人の無抵抗な身体をしっかりと抱き締める。そして、水面に向かって、水底を蹴った。

 浮遊感の心地よさを味わうでもなく、焦燥感に捕らわれながら、必死で水をかき分けた。胸の圧迫感が増し、意識が薄れてくる。
 (ああ、神様。どうかビンセントをお救いください。僕はもう駄目・・・・・・)
水面はまだ遠い。ビンセントを抱き締める手が麻痺していくのを感じ、それでも離すまいと、最後の力を振り絞って、その身体を抱き締めた。

 (僕は死ぬのか。ああ、でも、いいか)
崖から落ちた時に感じた無念さが、何処にもなかった。独りで死んでしまうのかと思ったときの理不尽さも無念さも、今は微塵も感じなかった。彼と一緒ならばそれでいい。夢や希望とはまた別の、失いたくない大切な人。

 (こんな事なら、もっといろいろと話しておけばよかった)
心残りと言えば、ビンセントと気まずい思いのままで別れてしまう事。
(ごめんなさい、もっと素直になれていたら・・・・・・)
そうしたらどうしていたのだろう。彼に何を言いたかったのだろう。どうしたというのか。

 ゴホゴホッ
最後の息を吐ききって、変わりに大量の水を吸い込んだ。
(ああっ)
力が抜けていく。と、その時、ガッシリと自分を捕まえる力強い腕を感じた。
 (えっ!?)
ビンセントの腕が自分をしっかりと捕らえていた。先程までは閉じられていた彼の瞳が開かれていた。紫の孤高な光。

 (ビンセント)
彼の顔がスーッと近づいて、唇が自分の唇にあわされる。
 (あっ!!)
ジーンと甘い痺れが全身に走り、同時に息苦しさが消え去っていた。

 (秋生)
何故だか彼の声が頭の中に響き、自分を見つめて微笑むビンセントの顔を間近に見て、秋生はうっとりと見つめ返した。
 (ああ、やっぱり綺麗だ)

 そうして、彼の唇がもう一度あわされる。静かな口づけであった。秋生は抵抗する事を忘れて、なされるままに受け入れた。
 差し入れられた舌が口内を貪り、秋生の舌を絡め取る。

 やがて、水面に到達した。だが、二人の身体はしっかりと抱き合ったまま、スーッと空中へと舞いあがっていた。が、秋生はそれに気づく事もなく、ビンセントに翻弄され、甘い疼きに酔っていた。

                                         つづく
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