(その4)

2000.8.20



 『旧約聖書』創世記第十一章に記述されている〈バベルの塔〉。

大洪水を生き延びたノアの子孫は、神の恵みをうけて各地に移り住み、
みな同じ言葉を話し、心はまとまっていたが、
人々はやがて驕り高ぶり、巨大な塔を建てて、
その頂を天に接しようとするなど、
その勢いは止めるべくもなかったので、
エホバの神はくだって人々の言葉を乱し、全地に散らした。 
 そこで、この町はバベル(混乱)と呼ばれた。



 神の恩恵を受け、平和な時を過ごしながら、何故に人の心は歪んでしまうのか。
神を崇めるだけではなく、愚かにもその神聖な域へと近づこうとした哀れな人間への戒めを聖書は説く。人はあくまで人であり、神にはなりえないのだということを。
 そして、野望の果てに待っているのは、平和ではなく、破滅だということを・・・・・・。

 現代はアメリカ、ニューヨークに林立する大高層建築群。
その建物中では、人々の愛や憎しみなど様々な感情が渦巻いていた。
夢や野望を達成するために、人間同士が凌ぎを削り、戦い続ける。
己の幸せのために他人を蹴落とす事を決して躊躇わぬ弱肉強食の世界。
勝った者が栄華を誇り、負けた者は地を這う生活。
自由と平等の名のもとに、勝者を称え、敗者を蔑み、
人々は次なる勝者に己がなることを望み、上へ上へと手を伸ばして求める。
 天へ届かんばかりのその建築群を、人々は人類の繁栄と叡智のシンボルとして、
『摩天楼』と呼ぶのであった。


 
人類の驕りは再び、天へと向かう。
 破滅への階段を一段、一段と上っていることを知らずに。
 そして、神の怒りはくだされる。
 今度が、人類に許された最後のチャンスであったことを
 知らぬままに・・・・・・。


摩天楼
SKYSCRAPER


 真っ黒な厚い雲に覆われた天を、鋭い稲妻が切り裂き、雷鳴が轟き渡る。その凄まじさは、そのまま豪雨となって地上に叩きつけられる。人間の業を責めるように。その愚かさがもたらした罪を清めんとするように。

 (おのれ人間めが。ただですまされると思うな)
激しい怒りに満ちた意志の叫びが、新たな稲妻を呼んで、天を切り裂く。
 (何度繰り返せばいいのだ)
 (まったく愚かな生き物よ)
 (もはや、滅びてしまえばいいのだ)

 天界と人間界の狭間に集まった四つの意志は、怒りに満ちていた。彼らの主たる存在を、奪われてしまった後悔と奪った者への激しい憎しみ。彼らの持てる力の全てを屈しして、世界のあらゆる所をくまなく捜してみたが、その気配すら見いだせないでいた。転生体が死んでしまったというのか。だが、この世が続いているところを見ると、『黄龍』の気配が完全に消え去ってしまった分けではないのだろう。

 そもそもこの世は『黄龍』の夢からなるのだ。人間界はまだ変わらず存続している。ということは、『黄龍』の眠りはまだ守られているということだ。それが彼らにとっての唯一の救いとなっていたが、それでも『黄龍』を奪われた事にはなんだ違いはなかった。

 『黄龍』を手に入れた者がこの世を支配する。その間違った伝承を信じる者達によって、幾度となく『黄龍』の転生体は、危険な目に遭わされてきた。その愚かな思い違いは、下手をすればこの世の夢を見続ける『黄龍』の眠りを、妨げる事になってしまうという事も知らずに。
 『黄龍』が目覚めれば、夢であるこの世は消えてしまう。それを知らぬまま、野心を抱く多くの人間が、『黄龍』を己の手にしようと、争い続けてきた。
 四つの意志は、そんな『黄龍』の眠りを守るために存在し続けてきた。青龍、白虎、朱雀、玄武の四聖獣は、5000年の永い時を、『黄龍』の転生体を陰ながら見守り続けて来たのであった。

 ところが、青龍は、現世における転生体である『工藤 秋生』という日本人で22歳になる青年を愛してしまったのである。現世での二人の再会は、5000年の間続けて来られた、守る者と守られる者という一線を越え、深く結びついたのであった。

 秋生は、自分が転生体であるという意識を持ったかつてない特殊な状態にあり、幾度となく『黄龍』を狙って現れた者達との戦いの中で、二人の間に愛が芽生えるのに時間はかからなかった。
 そして、あの夜。マカオの一流ホテルで、ついに二人は結ばれたのであった。

 青龍は、今もその身体が覚えている、秋生との甘い記憶を思い出し、苛立ちのあまり、怒りの稲妻を宙に向かって放出する。愛を交わしあった余韻が消える間もなく、翌日、買い物を楽しみ、荷物を置きに部屋へ戻ったわずかな時の間に、秋生は何者かによって連れ去られてしまっのだ。青龍はホテルの部屋ごと爆破されるという悲惨な目にあわされていたが、何よりも秋生を見失ってしまったという無念さが、青龍の怒りを煽りたてているのであった。

 大気をビリビリと震わせて伝わってくる青龍の激しい怒りと同じものを、他の聖獣達もまた覚えていた。
 彼らにとっても『工藤 秋生』という青年は、『黄龍』の転生体という前に、一人の人間として、愛すべき存在になってしまっていた。少し頼りなげで優柔不断でありながら、その素直さと、何をしでかすか分からない危なさゆえに、目の離せない、なんとしても守りたい愛しい存在になってしまったのだ。彼らのそれぞれの意識の中で、秋生の爽やかな笑顔が蘇り、それは、焦りとなって彼らを酷く苛立たせていた。彼ら自身も何者かによって狙われ、それぞれの家を爆破されていたが、ほんの一瞬早くに気づいて、自分の周りに結界を這って事なきをえたのであった。

 そのとばっちりを受けて,幾人かの者が怪我を負っていた。彼ら自身は、爆弾などを直接浴びたところで、なんの痛みにもなりはしないのだが、それでも、聖獣としての気を一瞬でも『黄龍』からそらすことには、成功していた。その隙に、秋生は何処かへ連れ去られてしまったのだ。

 (秋生、一体何処にいらっしゃるのですか?)
青龍は、今一度、その気を探ってみる。が、やはり何処にもその存在は感じられなかった。
 (敵は、明らかに我々の正体を知っていて、秋生から注意をそらすために、爆弾をしかけたということか)
 (まったく小賢しい)
 (だが、我々は今、『黄龍殿』の気さえも、知ることが出来ずにいる。してやられたというわけだ)
 (でも、秋生の命は、とりあえず安全という事だわ。転生体である彼を失っては、わざわざ攫った意味がないんですもの)
 (だが、みすみす渡して置くことは出来ない。『黄龍殿』の眠りが妨げられれば、この世は終わってしまうのだから)
 (終わってしまう事に意義はないが、だが、秋生を失う事は、出来ない)
 (ああ、そうだな)
聖獣達の大きな溜息。この世の運命を握るのは、平凡な人間の若者。愛すべき存在はただ一人、『工藤 秋生』である事を、聖獣達は思い知らされていた。


 「ウウ〜ン」
柔らかいフワフワな布団の感触と、閉じた瞼を通じて感じる周りの明るさに、秋生は軽く身じろぎ、目を片手で擦りながら、ゆっくりと目を開いてみた。
 見慣れない二十畳ぐらいの広々とした部屋。壁や天井は白で統一され、床には毛足の長い薄いベージュの絨毯が敷き詰められ、一方の壁の全体が窓になっていて、明るい真昼の陽の光が差し込んでおり、辺りの景色が一望出来た。キラキラと輝いて見えるのは、他からぬきんでて天へとそびえ建つ、向こうのビルの窓ガラスの反射。

 「えっ、ここは何処」
秋生はぼんやりとして、まだ全然眠ったままの頭で考えてみた。覚えているのは、そう、きらびやかなカジノ。ゲームに興じる紳士や淑女。山と積まれたチップ。
 (あっ、メチャクチャ勝っちゃったんだよね)
サイコロの目の数字が読み上げられるたびに上がった賞賛の溜息。思いがけなく嬉しい出来事に高鳴った胸の鼓動。縋り付いた逞しい腕。バーで飲んだカンパリのグレープフルーツジュース割りの爽やかな味。声を掛けてきたハンサムな男。エレベーターで渡された札束。戯れのキス。ホテルのスイートルーム。大きなベッド。そして・・・・・・。

 (ビンセント!!ああ、僕、ビンセントとついにしちゃったんだ!!)
思い出したとたん、身体に蘇って来たビンセントの温もり、逞しい胸、優しい愛撫。甘い夢のようだった行為の全て。その恥ずかしさに、周りに誰もいないのにもかかわらず、秋生は手で顔を覆うのであった。
 (ああ、恥ずかしい。でも、とても幸せだった)

 手の指をゆっくりと開いて、キラキラと陽の光を反射するビルの窓ガラスを何気なく見やりながら、フーッと息を吐いて、まだ少し残っている顔の火照りを冷ますのであった。
 少し落ち着くと再び記憶が、断片的に秋生の脳裏に蘇り始める。買い物をして、食事をして、荷物を部屋に沖に行ったビンセントと別れて、そして、出会った男。カジノのバーで声を掛けてきた映画俳優のジョン・ローンに似た優しそうなハンサムな男。プレゼントを見てくれといわれて、少しだけと思っていたのに、突然、屈強な男達に囲まれて、何か薬品を嗅がされて、意識を失って・・・・・・。その、直前に男が、そう、名前はジョイス・ファーン。その彼が言った言葉。
 『実はある人のプレゼントというのは、貴方の事なんです。ええ、そうです。貴方です。黄龍』
確かにジョイスは秋生の事を『黄龍』と言ったのである。

 (ああ、どうしよう。ビンセント!!)
愛しい人の名前を無意識に呼んで、秋生はその存在が、今、自分の側にいないことに不安を覚えるのであった。
 (ビンセント、ビンセントはどうしたんだろう)
何故、彼はいないのだろう。自分はどうして一人でこんなとこにいるのだ。
 (帰らなくっちゃ、ビンセントや皆の所へ、帰らなくっちゃ)
 秋生はまだフラついて思うように動かない身体を何とか立ち上がらせると、扉の所へと歩み寄った。

 ガチャガチャッ
ドアのノブを回してみるが、鍵が掛けられてあるらしくドアは開かない。秋生は意地になって、ドアを素手のまま叩いていた。
「出して、ここから出して!!」
声を限りに叫んでみる。だが、それに答えてドアは開かれる事はなかった。
「出して、出してよ。ビンセント、助けて!!ここから出してよ」
しかし、ドアの向こうには沈黙があるだけで、秋生の叫びは、自分を守護する絶対的存在への助けを求める叫びに変わっていた。
「ビンセント、お願い。僕はここだよ。助けに来て!!」
ドアを叩く手が痛みの感覚に麻痺し、叫びが鳴き声へと変わり、余りの空しさに、秋生はドアへ縋り付いたまま、ヘナヘナと座り込んでしまうのであった。
 (どうして、どうして助けに来てくれないの)
いつも自分の危機に助けに来てくれるビンセントや他の皆の頼もしい姿を思い出すのであった。

 事の起こりはいつも自分の優柔不断な態度である。秋生を、『黄龍』を求めて現れた人々(何故かそれはいつも年上の美人だったりするのだが)の思惑を見抜けずに、のこのことついて行った自分が引き起こした数々の事件。でも、その度に彼らは自分を助けに駆けつけてくれたのであった。それなのに、自分を甘やかす彼らの存在を疎ましく思って、起こした事件もあった。
 そして、今度もビンセントとの約束を守らずに、知り合ったばかりの男の口車にのってしまった自分がいけなかったのである。繰り返してしまった愚かな自分。その学習能力の無い馬鹿さかげんが、嫌になってしまう。

 (ビンセント、御免なさい。絶対、帰るから)
自分が招いてしまった事なのだから、今度はなんとしてでも自分の力で抜け出さなければ、彼らに呆れられてしまう。そんな気がして、どんなことをしてもビンセントの所へ帰るのだと、いつになく強く決心するのであった。
 (ビンセント、愛してるよ。だから、きっと待っててね)
 秋生はキッと顔を上げると、自分の頬を流れる涙を片腕で乱暴に拭い、立ち上がるのであった。それは、愛する存在への執着からくるものであり、その存在に会いたいという一途な思いが、秋生を健気に奮い立たせていた。

 ドアが駄目なら窓から抜けだそうと思い、窓辺へと歩み寄る。だが、彼の決心は窓から見下ろした風景に、いっぺんに萎えてしまうのであった。遙か地上で蠢く小さな点が車。人などまさにアリであった。
 (嘘〜っ!!)
向こうに見えるビルの根元から天辺まで、ガラスに張り付いたまま何度も視線を行き来させる。自分がいるのは、天に向かってそびえる高層ビルの一室。それもかなり上部に位置していると思われる。
 (ど・どうしよう。これじゃ、とても逃げられないよ)
落胆に秋生は自棄になって、ガラス窓をガンガンと拳で殴ってみたが、かなりの厚さでびくともしなかった。

 ガチャッ
背後で扉が開く音がして、秋生はビクッと身を竦ませて、振り返った。
 先程までは閉ざされて、ビクリともしなかった扉があっさりと開かれて、青の布地に色鮮やかな刺繍の施されたチャイナ服を着た一人の男が入ってきた。
 男は優しげな微笑みを端正な顔に浮かべて、窓の所に立ち尽くす秋生に声をかけるのであった。

 「お目覚めになりましたか、秋生。御気分はいかがです」
男の優しい物腰は、出会った時となんだかわらなかったが、秋生は冷めた瞳で、男を睨みつけるのであった。
 「最悪だね、ジョイス・ファーン。貴方のお陰でね」
精一杯の虚勢をはってみる。
「それはそれは」
肩を竦めて苦笑しながら、ジョイスはゆっくりと秋生に近づいて来るのであった。

 「随分と嫌われてしまったのですね。でも、私は貴方のことが好きですよ」
「なっ」
秋生はジョイスの言葉に警戒して、近づいて来る彼からスルリと身をかわすと、開いたままの扉から外へ飛び出そうとした。が、それは、あっさりと阻止されてしまった。扉の外には屈強な男達が控えていたのである。そして、飛び出そうとした秋生を見るやいなや 、すかさず前を塞ぎ、圧倒的な迫力で秋生を阻んだのだった。

 「あっ」
秋生はジリジリと押し戻されるように、部屋の中へと後ずさった。
 「優秀な部下が貴方を監視しています。逃げられません」
あいもかわらず穏やかな表情のままそう告げるジョイスの瞳に、キラリと鋭い光が走る。
「貴方はここからは出られません。此処がこれから貴方の住まいとなるのです」
「嫌だ。どうして?そんな事、貴方が言うの?」
さすがの秋生もジョイスの一方的な態度が鼻について、素直に従おうなんていう気はさらさらないのであった。
 「僕を帰して!!ビンセントの所へ帰してよ」
珍しく激しい口調で訴える。秋生にとって今、一番帰りたい所は、日本の父の所ではなくて、香港であり、ビンセントや仲間達の元であった。

 「残念ながらそれだけはかなえて差し上げる事は出来ません。諦めて下さい。私達には貴方が必要なのですよ。秋生、いえ、黄龍」
「な・なんだよ、それ。僕はただの工藤 秋生だよ。黄龍なんかじゃない。そんなの知らない」
 黄龍だと言われて、「はいそうです」とあっさり認めてしまうわけにはいかず、秋生は必死に否定したが、どちらかといえば、感情がすぐに顔を出してしまう方なのが災いして、否定すれば否定するほど、相手にはそうだと思わせてしまうのであった。

 ジョイス・ファーンは、そんな秋生の態度を面白そうに見つめていたが、やがて、ハーッと溜息をつくと、必死の形相で訴える秋生の頭を、子供を宥めるように優しく撫でるのであった。
 「本当に可愛らしい方ですね。ビンセント・青が虜になるのがよく分かります。貴方にとっては不本意な事なのは分かりますが、先程も言いましたように、私達には黄龍の力が必要なのです。貴方さえおとなしく言うとおりにして下されば、手荒なことはしないと約束します。だから、どうかお願いします」

 そう言うジョイスの表情が余りに真剣だったので、秋生は言葉を失い、髪に感じる彼の優しげな手の感触を黙って受け止めるのであった。
 (この優しさは本物?偽物?でも、『黄龍』の力を欲するがために、僕を騙して誘拐した。どうしよういうの。信じられないよ)
いくら自分が単純だからといって、そうそう人を簡単には信じられない。自分にだって少しは学習能力があるのだから、皆に笑われないように頑張るしかないのだ。絶対に助けに来てくれる。それまではなんとしても自分でしっかり達振る舞わなければならない。
 (ビンセント、僕、頑張るからね!!)
心の中で呼びかける。そうしているうちに、秋生は高ぶっていた心がスーッと静まって、元気がわいてくるのを感じるのであった。

 「一体ここは、何処」
秋生はジョイスに尋ねてみた。窓から見える景色は、香港のものと明らかに違っていた。
「ニューヨークの私どものビルです」
「ニューヨーク!!」
予想を遙かに超えた答えに、秋生は目をむいて叫んでいた。が、すぐに気を取り直して、抵抗してみた。

 「たとえニューヨークだって、皆が助けに来るんだから」
それには絶対的な自身があった。だが、ジョイスは口元に余裕の怪しげな笑みを浮かべるのであった。
「それはどうだか・・・・・・。一つ教えてあげましょう。このビル全体に強力な結界を巡らせてあります。貴方がいくら呼んでも、彼ら四聖獣には聞こえないし、彼らも貴方を捜し出す事は出来ません。それにー」

 「ジョイス、ジョイス」
扉の向こうから近づいてくる男の苛立った声に、ジョイスの言葉は中断された。それを耳にした彼の顔に一瞬、嫌悪の表情が浮かび、溜息と共に消え去るのを、秋生は見てしまった。そして、彼はもう一度フ〜ッと重い息を吐きながら、秋生の頭から手をのけると、ジョイスはクルリと振り返った。
 扉の所に、太った男が立っていた。
「ジョイス、一体何をしているんだ!!」
脂ぎった顔を怒りに紅潮させ、脂肪に埋もれるような細くきつい陰険そうな眼差しで、睨みつけてくる。

 「これは、フェイ叔父上。今、お連れしようと思っていたところです。わざわざお迎え戴きまして、ありがとうございます」
ジョイスのあくまでも丁寧で穏やかな応対に、フェイと呼ばれた男は、忌々しげに舌打ちすると、吐き捨てるようにいうのであった。
「山主がお待ちかねだ。サッサと『黄龍』を連れてくるんだ。いいな!!」
それだけいうと、巨体を揺らして出ていく。ジョイスはその後ろ姿を無表情に見つめていたが、おもむろに秋生の方を振り返ると、再び笑顔で告げるのであった。

 「貴方に会っていただきたい方がいます」
そういうと、壁に収納されているクローゼットの方へ歩み寄り、扉を開けて、中につるされていた黄色のチャイナ服を取り出した。今にも天にも昇りそうな龍が刺繍されている。
「これに着替えてください」
そう言われて秋生は、自分が連れ去られた時のままの姿であることに気がついた。上着はなくてシャツのままで、タイは外されて、胸元のボタンが二つ外されている。ズボンはシワシワで見る影もない。
「・・・・・・」

 秋生はなんだか素直に従う事が嫌で、ためらって立ち尽くしていると、ジョイスが背後から近寄ってきてその肩を抱くと、そっと耳元に囁くのであった。
「何でしたら、着替えを手伝いましょうか」
背筋をゾクッと走り抜ける甘い感触に戸惑いながら、それを打ち消すように叫んでいた。
「け・結構です!!自分でやります」

 そして、真っ赤になりながらジョイスの手からチャイナ服をひったくるようにして受け取ると、すぐさまシャツのボタンを外しかけて、ふとニヤニヤと意地悪く笑って自分を見つめているジョイスに気がつき、キッと睨みつけた。
「着替えるときくらい遠慮してもいいんじゃない。それとも、貴方は男の着替えを見る趣味でもあるんですか?」
自分にしては、なかなかの嫌みではないかと感心しながら言った秋生であったが、ジョイスは大した動揺も見せずに涼しい顔をして、あっさりとうち砕くのであった。
「勿論、貴方が女性であれば当然、御遠慮させていただきますが、普通、同性同士だったら気にしないものだと思うのですが、それとも見られて困るような事でも、おありになるんですか?」
「そんなことないーっ!!」
自分が揶揄されている事にやっと気がついた秋生はクルリと後ろを向くと、意地になって黙って着替え始めるのであった。

 シャツを脱ぎ、ズボンを脱いで下着だけになる。そして、チャイナ服を慌てて着込む。その姿を見守っていたジョイスは、突然、スッと目を細めるのであった。秋生は着替えるのに必死で全然気がついていないようだが、その滑らかな肢体のきわどい箇所のあちこちに散った鮮やかな朱の刻印を認めたからである。
 (お相手はビンセント・青ですか?)
カジノで見かけたときの仲睦まじい二人の姿を、ジョイスは思い出しながら、心の中で秋生に問っていた。

 自分に注がれている美女達の熱い視線をものともせずに、ただ一人だけに向けられていたビンセント・青の静かで暖かい、包み込むような眼差し。誰がどんなに望んでも得られないその人物の傍らに、当然のように寄り添い、幸せそうに笑っていた秋生。二人がそう言う関係であったとしてもなんの不思議も感じない程の自然な姿であった。
 だが、今、秋生のその瑞々しい身体につけられた甘い行為の名残を目にして、ジョイスは自分でも不思議なくらいの嫉妬心を感じて戸惑うのであった。

 チャイナ服に着替えた秋生が、チョッと拗ねたような眼差しで振り返る。そんな何気ない仕草さえもが、愛しく感じられてしまうのである。だが、自分には不要な感情であった。ジョイスは心を閉ざして、自分の中に育ち始めた感情を凍結させるのであった。


 ジョイスに連れられて部屋を出ると、彼に従う屈強な五人の男達は、無言のままに彼と秋生を囲むようにして、歩き出した。
 廊下の突き当たりのエレベーターに乗り込む。どうやら秋生が居た部屋は、最上階だったらしく、下へと降りていく。
 すぐに止まり、ゆっくりと開かれた扉の向こうでは、ザワザワと多くの人々がざわめく声が響いていた。
 「降りて、そのまま真っ直ぐ正面に向かって歩いて下さい」
促されて、戸惑う暇もなく、護衛に押し出されるようにして、エレベーターを出る。不意にざわめきが消えて、部屋の中にいた人々の突き刺さるような視線が集中するのを感じて、秋生は凍りつくのであった。
 大きなパーティー会場のような部屋の左右の壁に別れるように立つ人々。誰しもが中国系のどことなく怪しい雰囲気を漂わせた男達ばかりであった。そして、正面の一段高い場所で、椅子に座る男の側に、先程呼びに来た太った男が寄り添うように立っていた。

 重い沈黙に秋生は、自分の足が竦んでガタガタと震えそうになるのを感じた。確かに香港を初めて訪れた時、『黄龍』を狙って近づいてきた秘密結社の香主であるアニタ・李に連れられて、彼女の屋敷に案内された時に、怪しい男達を見て感じた緊張感と同じものであったが、その時よりも遙かに大きなものであった。が、
 「大丈夫ですから、安心して。さあ、深呼吸して」
肩を優しく支えて囁くジョイスの指示に、秋生は大きく深呼吸して、ゆっくりと正面の男に向かって歩き出すのであった。

 正面の椅子に座る男は、五十ぐらい。痩せて顔色が悪く、黒い髪にも白いものがちらほらと混じっている。側にいる太った男のぎらついた抜け目のない感じとは対照的に、全体的な雰囲気は上品で落ち着いていて風格があるのだが、どことなく窶れた感じが拭えなかった。生命力が弱っているという表現が、ピッタリであった。
 歩みと共についてくる人々の不躾な視線に、息がつまりそうになりながら、それでも秋生は必死に耐えて、歩ききるのであった。

 王座のような高みから、椅子に座ったまま見下ろす男に、ジョイスが深々と頭を下げる。
「ただいま戻りました。山主」
「ジョイス、御苦労だった。お前の働きには、感謝するぞ」
「ありがたき御言葉、嬉しゅうございます。彼が、お約束の『黄龍』でございます」
「お〜っ」
ジョイスの言葉に反応して、部屋中の人々から驚きと疑惑のざわめきが起こった。
 「この者がそうか」
病んだ男の瞳に満足げな歓喜の光がともり、椅子から身を乗り出すようにして、秋生を見つめるのであった。

 「間違いはないのか」
声さえも喜びに震えていた。
 「はい。サンフランシスコの呉先生に確認をとりました。工藤 秋生、彼こそが『黄龍』に間違いありません」
静かだがきっぱりとした口調で言い切るジョイスに、男は満足げに頷くのであった。
 「近くへ」
男の手に招かれるが、緊張して足が動かず、躊躇っていると、太った男が近寄ってきて、秋生を引きずるようにして、強引に男の足下へ跪かせた。

 男の痩せた枯れ枝のような手が、秋生の顎を捕らえて顔を上げさせる。値踏みをするような鋭い視線に耐えきれず、秋生は目を伏せた。睫が陰を落として、微かに震える儚げな様子に、男の瞳に妖しげな光が灯る。
 「確かに整ってはおるが、想像していたのとは随分違うな。『黄龍』とは、思えぬ凡庸な、普通の人間となんだ変わるところがない」
 (凡庸で悪かったな!!)
ムッとして睨みつける。と、男は面白そうにフッと表情を和らげるのであった。
「なかなか気丈ではある」

 「おめでとうございます、山主。『黄龍』を手に入れた者は、この世を支配するという伝承が確かなれば、これで、義兄上は、この世の王者となられたのです。我等ファーン一族の要たる義兄上の偉業は、我等ファーン一族の反映を意味します。誠に喜ばしい限りでございます」
慇懃な態度の太った男、フェイの言葉に賛同するように、会場に集まった人々の間から、拍手と歓声が巻き起こった。
 「それでは早速、支度致しまして・・・・・・」
「うむ」
山主の頷きに、厭らしくニンマリと笑ったフェイは、ジョイスへと指示する。
「ジョイス、支度を」
「はい」
素直に頷き、再び深々と山主に向かって礼をしたジョイスは、秋生をそっと立ち上がらせると、ガードの男達を伴って、部屋を退出するのであった。


 エレベーターの扉が閉まるなり、緊張の糸が切れた秋生は、大きな吐息をつくのであった。そのいかにもといった様子がおかしくて、ジョイスの形の良い薄い唇に、思わず笑みが浮かぶ。
「随分と驚かれたようですね。『一四Kの虎』と呼ばれるヘンリー・西と親しいので、慣れていらっしゃるのかと思っておりましたが、以外ですね」
「ヘンリーは、ちっとも怖くないーっ」
言い訳しようとして、何故、ジョイスがヘンリーの名前を知っているのかということに気がついて(今更なのだが)、秋生は驚きに目を丸くして、彼を凝視した。

 ジョイスはにこやかな笑顔を秋生に向けながら、その視線の問いに答えるのであった。
「貴方の事なら何でも知っていますよ。香港の富豪の一人に数えられる青年実業家の、ビンセント・青が青龍。ヘンリー・西が白虎。貴方の従兄弟というセシリア・朱が朱雀。密輸船を操るユンミンと゜いわれている老人が玄武であること。そして、貴方が『黄龍』の転生体であることをね。噂は知っておりましたが、まさか本当に実在するとは、思ってもいませんでしたけれど。サンフランシスコの風水師、呉先生には、このビルを建てるときにお世話になりました。香港で貴方にお会いしたと聞きまして、出向いたというわけです」

 呉先生は、香港の秘密結社『幇』の山主であるアニタ・李の父親と親友であり、『黄龍』の気を見ることの出来る本物の風水師である。彼は、アニタの父と共に『黄龍』を手に入れようと、その存在を探し求めていた人物であり、お陰で、秋生はアニタと結婚させられそうになった苦い経験があった。
 「『黄龍』の転生体だからってなんだっていうの。僕は普通の平凡な人間で、なんの力もないんだよ。僕なんか誘拐したって、なんの得にもならないんだから」
言い切る秋生の言葉を、だが、ジョイスは全然本気で聞いている風もなく、ただ、初めてあったときと少しも変わらぬ優しげな瞳で、秋生を見つめているばかりであった。そうしている間に、エレベーターは到着して、扉が開く。

 ガードの男達を部屋の前に残して、秋生とジョイスの二人だけが中へと入る。そこは、初めにいた部屋であった。いつの間にか、部屋の中が整えられており、秋生が脱ぎ散らかしていった服も、片づけられていた。
 「秋生、先程、貴方は自分にはなんの力もないとおっしゃいましたが、それでも貴方が『黄龍』であり、山主が貴方を望まれる以上、私はそれに従うしかありません」
秋生はジョイスの言葉を聞きながら、山主のどことなく窶れた風貌を思い出して、ジョイスに尋ねてみるのであった。
 「山主は何処か身体が悪いの。なんだか顔色悪かったし、窶れてたけれど」
「ええ・・・・・・。あの方は癌で、いろいろと手を尽くしましたが、後、三ヶ月の命と医者に宣告されました。しかし、『黄龍』の力で、あの方を救って戴きたいのです」
 そう告白するジョイスの顔に悲しみの影が過ぎるのを、秋生は見てしまった。もし、自分にそれが可能であるならば、助けてあげたいと思う。だが、それは出来ない話であった。

 「助けられるものなら助けてあげたいけど、僕にはそんな力、全然ないんだよ。そもそも、『黄龍』に関する伝承は間違っているんだ。『黄龍』を手に入れ、その眠りを覚ましたものがこの世を支配出来るなんて、全くのデタラメなんだ。確かに僕は『黄龍』の転生体だけど、そんなこと、香港に来るまで全然知らなかったし、知った今でも僕は『工藤 秋生』っていう普通の人間にしか過ぎないんだ。僕の中で『黄龍』は眠っているだけだし、ビンセント達四聖獣は、その眠りを守るために存在してて、本当の事いうと、『黄龍』の眠りは覚ましてはいけないんだ。だって、この世は『黄龍』の見ている夢なんだから。目覚め、即ち、夢の終わりは、この世の終わりって事なんだ。だから、僕の事は諦めて。残念だけどなんの力にもなれないんだ。お願い、信じて。そして、僕をビンセントのところへ帰して。ねえ、お願いだから」

 「今更それは出来ません」
ジョイスの容赦のない拒否。彼の整った表情から暖かさが消え失せ、確かに同じ人物であるはずなのに、全然別の人間のような、根拠のない恐怖感にとらわれた秋生は、身を震わせると、二・三歩後ずさるのであった。
 「あの方が『黄龍』を望んでいるのです。出来るとか、出来ないとかはこの際、問題ではありません。それに残念ですが、ビンセント・青は、青龍はマカオのホテルの爆発に巻き込まれて、行方不明です。他の三人も同じで、恐らく生きてはないでしょう。ですから、おとなしく言うことを聞いて下さい。そうすれば、貴方も此処で無事に過ごしていける。私も手荒なことはしたくはありませんからね」
一見、相変わらず穏やかではあるが、脅迫めいたその言葉も、秋生の耳には半分も入る事はなかった。

 (ホテルが爆発。ビンセントが行方不明!?)
頭の中が真っ白になり、ただ、その言葉だけが頭の中に響き、足がガタガタと震えて、フ〜ッと気が遠くなるのを秋生は感じるのであった。
 「大丈夫ですか」
ジョイスが倒れそうな秋生をすかさず抱きとめる。
「嫌だ、放せ〜っ!!」
秋生は叫んで、自分を支える彼の腕を邪険に払いのけた。
 (死んだなんて、嘘だ。きっと助けに来てくれるよね、ビンセント!!)

 「秋生」
真っ青な顔をして、震える唇をギュッと噛みしめて耐えているその様子に、ジョイスはさすがに後ろめたさを覚えながら、それでも自分はそうせざるをえなかったのだと、渇いた心に言い聞かせ、秋生の肩をそっと支えようとした。が、それさえも許されず、邪険に払いのけられるのであった。
 「嘘つき〜っ、貴方なんか大嫌いだ!!」

 バシッ
吐き捨てるように言った秋生の左の頬が音を立てる。ジョイスが黙らせようと、平手で打ったのであった。その痛みに黙りながら、潤んだ瞳で睨みつけてくる秋生に、あくまで冷静を装いながら、ジョイスは告げるのであった。
「貴方に好きになってもらう必要はありません。おとなしく従っていただければ別にかまいませんから」
だが、そう言いながら、殴った手のジンジンと痺れるような痛みと、不可解な動揺を誤魔化すように、ジョイスはギュッと拳を握り締めるのであった。


                                                 つづく


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