亜州王国物語2


2004年10月9日 更新
(1)

 ほんの少し指先に力を込めると、哀れな生贄はヒィーヒィーッと苦しげな泣き声を上げて、ピクピクと痙攣し、やがてその身体からスーッと力が抜け、動かなくなった。
 あっという間におとずれた死。若く美しい生贄の、恐怖に見開かれたままの瞳は、己の身の上におきた理不尽さを無言で訴えていたが、余りにも呆気なくおとずれた生贄の最後は、彼の身のうちに昂ぶる欲望を完全に満たすほどではなかった。

 (マダマダタリヌ。モットモットダ。モット欲シイ)
最早、自分の興味の対象ではなくなってしまった哀れな生贄の身体を、近くの草むらへと軽々と放り投げる。落ちた衝撃で奇妙にネジ曲がった少年の手足は、まるで人形を思わせたが、牙で食い破られたその華奢な首筋や、はだけられた胸元に走る鋭い爪痕からは、まだ赤い血が流れ出し、地面を黒く染めていた。

 バサッ
そして、おもむろに閉じていた背中の黒い蝙蝠のような翼を広げ、飛び立つ。少年から得た瑞々しい生気によって、彼の身体には完全とは言えないものの溢れんばかりの力が漲っていた。みるみる内に空高く舞い上がり、闇に包まれた香港の町並みを見下ろしながら、血のこびりついた口元を緩めて、ニタリと満足げに笑った。

 (マッタク素晴ラシイ都ダ。美シク豊カナ見セカケノ平和ニ、人ノ心ハ堕落シ、欲望ニ満チ溢レテイル。人ハ己ノ幸セダケヲ願イ、他人ノ不幸ヲアザ笑ウコトニヨッテ、己ノ幸福ニ酔ッテイル。マサニ背徳ノ都、我ラ魔ニトッテ、マサニ夢ノ都ダ)

 先程味わった少年の恐怖に歪んだ顔を思いだして、彼は再びおかしそうに笑った。


 その昔、亜州王国を建国したラディス一世は、国中を荒らしまわっていた魔物達を討伐するために、古の神、青龍の恩恵を得ようと、香港の都に神殿を建て、亜州王国の守護して祭る誓いをたてた。
 そして、ラディス一世の願いに応えた青龍は、香港の平安を約束して王を助け、魔物達を退治したと語り継がれている。

 実際に、幾度もの近隣諸国からの侵略にも屈する事無く、亜州王国は平和で豊かな時を経て来た。
 今でも王国のほとんどの人々が、青龍を守護神として称え、崇めている。神殿には王国中から巡礼者が集まり、香港は、『華やかなりし夢の都』と謳われるほどに、繁栄していた。

 だが、何時の頃からか都には人知れず魔が蔓延し始めていた。華やかな都の内部は、長く続いた平和のためにすっかり淀み、退廃してしまったのである。戦神、青龍の守護はとうの昔に消え去っているというのに、それに気づかぬ人々は、いまだに自分達が偉大なる神に守護されていると信じ込み、その絶大なる信頼に慢心して、己の欲望のみを追及し、悪徳の限りを尽くしながら、その一方で神を称える事によって、その罪深さを誤魔化しているのである。

 そんな香港の都は、まさに魔にとって楽園であった。魔の喜ぶ悪が栄え、人の心を欲望が支配しているのである。今はもういない神の守護の元に、魔に対して余りにも無防備な哀れな人々は、彼らの食欲を満たす絶好の生贄となり、ますます魔の力を強めていた。滑稽なのは、そのことに気がついている者が、ほとんどいないということである。

 都の警備は、ここのところ彼の『食事』によって厳しくなっていたが、たかが人に魔が捕らえられるはずもなく、彼の鋭い爪と牙は、いとも簡単に人を引き裂く事が出来たし、姿を変えて欺くことなど造作もないことであった。

 それにみせかけの平和にボケた人は、『魔』の存在を考えようともせず、愚かな変質者の仕業にしか考えていないのである。

 その魔の名前は、『ヒューリー』と言った。人の心の歪みが生んだ、ほんのちっぽけな魔であった彼は、都の妖気を吸い取り、次第に力を増幅し、巨大な魔に成長したのである。大きな蝙蝠のような翼。ヌラヌラと青く光る皮膚とギョロリと大きな眼は蛙のようであるが、耳元まで大きく裂けた口からは、鋭く尖った歯が覗いていた。一応、人型をしているが、耳は尖っており、手足は細く長くて、その先の爪は、鋼のように硬質であった。

 ヒューリーは、都の上空を優雅に飛行しながら、都の、人が吐き出した悪の臭気を吸い取り、高らかな笑いを闇に響かせて、次の生贄を求めるのであった。

 ゾクリッ
上機嫌のヒューリーは、突然、感じた嫌悪感に身を竦ませた。
 「なんだこの汚らわしい力は」
魔の嫌いな聖なる力であった。最早、都の何処にも残っていないはずの神の力である。今では神殿さえも歪んだ信仰心によって、汚れた状態にあった。だが今、確かに彼が触れた力は、神のそれに間違いなかった。

 ヒューリーはゆっくりと静かに、力を感じた方へと降りていった。やがて、暗闇の中に、人影を見つけ出し、近くの大木の枝へと降り立ち、その人影が近づいてくるのをそっとうかがい待った。


 ドヤドヤと大勢の足音が近づいて来る。全部で二十人ばかり。背の高い、鍛えられた筋肉と鋭い気を持つ男達であった。腰の長剣は、どれも立派で名のあるものであろう。彼らがかなりの剣の使い手であることは間違いない。ヒューリーは自分が感じた力の正体を見極めるべく、息を潜めて、じっと男達の様子をうかがった。

 彼らは亜州王国の騎士団員であった。都で多発する殺人事件の犯人から王宮を守るべく、一日中警邏していたのである。
 そして、先程仲間と交替して、宿舎に戻るところであった。

 連日の厳しい警備と犯人捜索に、どの顔にも焦りと疲労が浮かんでいた。彼らの必死の警備にも関わらず、その裏をかくように犠牲者は、日々増えつづけていくばかりである。

 「秋生、大丈夫か。もう、眠いんじゃないか。子供はもうベッドに入る時間だよな」
先頭をいく銀髪を短く刈り込んだ男が、列の後ろへのんびりとした声をかける。その男の言葉に、男達の疲れた表情が和み、笑い声が漏れた。

 「眠くなんかありません!それにシェン、何度も言いますけれど子供じゃありません。もう、15です!!」
列の最後尾から拗ねた声が訴える。その叫びに、男達はますます笑い声を大きくするのであった。

 列の一番後ろを歩いている声の主は、15という彼の歳からすれば決して小さい方ではないが、先を行く大男達の仲では特に小さく感じられてしまうのだ。華奢な身体つきの少年は、茶色の柔らかな髪を肩まで伸ばし、少女のように愛らしい稀に見る美しさの持ち主であった。
 だが、その腰には身体に似合わぬ立派な長剣が携えられていた。
 彼は赤い形の良い唇を少し尖らせ、笑いながら前を歩いていく男達を恨めしく見つめた。
 (もう、すぐ子供扱いするんだから)

 少年の名は、工藤 秋生。彼が故郷の大和から長い一人旅の末に、なんとか香港に到着し、念願の騎士団へ入団する事が許されて、早3ヵ月が経とうとしていた。まだ見習いの身分ではあるけれども、幼い頃より夢であった騎士団に入団できたことは、秋生にとっては何よりも嬉しいことであり、毎日の厳しい修行を辛いと感じる事もなく、楽しい日々を過ごしていた。

 ただ一つ困ったことに、秋生は先輩の騎士団員達の『マスコット』、言い換えれば『おもちゃ』と化してしまっていた。
 秋生の飛びぬけた美貌もさることながら、田舎育ちの純朴さと、騎士団では異例の最年少という事もあって、何かとからかいの対象になってしまのである。もちろんそれは意地悪というのではなく、親愛の情の行き過ぎだということも秋生は知っていたが、それでも子供扱いはできることならやめて欲しいと願わずにはいられない今日この頃であった。


 (アレカ!!)
ヒャーリーは、忌まわしい神の力を感じる人物の姿を見つめた。暗闇の中でも光を放つような茶色の髪をした美しい少年。成長期にある、まだ幼さの残る柔らかそうな身体とすんなりと伸びた肢体。

 (喰イタイ!!)
先程食事をしたばかりの彼の中に、新たな欲望が沸き起こり渦巻く。少年の白い肌を爪で引き裂き、細い咽喉に喰らいついてドクドクと流れ出す赤い血を啜るのだ。恐怖に歪んだその大きな黒い瞳が死の瞬間に浮かべる光は、さぞや彼を満足させてくれるに違いない。

 その上、人の目には決して見る事は出来ないが、確かに少年に刻まれている《神の印》は、神に祝福された者が持つ印であり、その印を持つ人間を堕落させ、犯し、生き血を啜る事が出来れば、魔としての自分の力はますます増大する事は間違いないのだ。

 ヒューリーはニンマリ笑うと、沸き起こる食欲を抑えきれずに舌なめずりをして、生贄の姿をもっと良く見るために木の影から身を乗り出した。


 「ほら、そんなにむくれていると、折角の可愛い顔が台無しだぞ」
隣りを歩く男の笑いを含んだ声に、秋生は、ハーッと大きくため息をつき、恨めしげにその男を見た。
 「もう、エリーまでが僕の事、からかうんだ」
おかしそうにクスクスと笑うその人物の方が、自分よりもずっと綺麗なのにと、秋生は思った。

 金色の長い髪を後ろで一つに束ねた白皙の美貌が、前を行く男の持つ松明の炎に、闇の中に浮かんで揺れている。エリアルド・ラモーヌ。歳は23歳。落ちついた知的な緑の深い眼差しとすんなりとした鼻梁。そして、薄く赤い唇。一つ一つの美しい造形がまとまることによって、完璧なまでの美しさを生み出している。゛たが、それは決して女性的な美しさと言うのではなく、確かに男性だと分かる鋭さを持っていた。軟弱な自分とは違う、完成された大人の美しさ。

 「からかっているわけじゃない。本当に可愛いんだから。皆、秋生をかまいたくって仕方がないんだ。お陰で一日の疲れも忘れてしまう」
エリアルドは優しく微笑みながら言った。彼の言葉他の男達からも、『そうだ、そうだ』と同意の声があがったが、秋生はプルプルと小さく頭を振って否定した。

 「秋生は、私の言葉がしんじられないというのか。ああ、なんて情けないんだ」
エリアルドの大げさな芝居じみた意地の悪い言葉を、だが、秋生は本気に受け取ってしまい、困惑の表情を浮かべて俯いてしまった。

 そんな素直な反応を示す秋生の茶色の柔らかな髪を、エリアルドは苦笑を浮かべながらそっと手を伸ばし、クシャクシャと撫でまわした。そして、まだ未発達な彼の細い肩に手を回して引き寄せると、耳元で囁いた。

 「その素直な反応が、楽しくたまらないんだけどな」
またからかわれた事に気づき、ハッと顔を上げた秋生の頬が、怒り恥ずかしさに真っ赤に染まっていた。
 「もう、いい加減にしてください!!」
プーッと膨れてしまった秋生のその態度が、ますます男達の笑いを誘う。

 秋生は、こうして何かとかまってくれる先輩達の無骨で遠慮のない愛情表現を、感謝こそすれ、恨んではいなかった。長く辛いたびの末に掴んだ夢のような毎日。自分に寄せてくれる好意を、一度は騎士への夢を諦めかけたせいもあるのだろうか。何気ない毎日が、彼には失いたくないとても大切なものに感じられるのだった。


 「さあ、行くのです。たとえ離れていようとも、心は貴方と共にあります」
そう言って自分を送り出してくれた、深い森に棲む孤高の美しい人。彼の好意を、そして、芽生えた愛を残して、一人旅立ってしまった自分に、果たして夢を追う資格などあるのだろうか。そんな思いが秋生の心の奥に、後悔となってわだかまっていた。

 今でも鮮明に思い出されるのは、彼の紫の瞳。言葉少ないその人の、自分をまっすぐ見つめる深く静かな、それでいて息のつまりそうなほどに熱い眼差し。その美しい人を思い出す度に、秋生の胸には深い後悔が過ぎり、切ない痛みに教われ、涙が出そうになってしまう。

 だが、秋生は必死に涙を堪えた。自分で選んだ道なのだと。ここで後悔しても何も始まらない。自分を送り出してくれたその人の気持ちを、それこそ台無しにしてしまうのだと、自分に言い聞かせた。
 愚かな罪は罪として、自分はその分も頑張らなければならない。なんとしても夢を実現させるのだ。そして、いつの日か胸を張ってその人に会いに行こうと、秋生は心に決めていた。

 (・・・・・・・)
秋生はそっと心でその人の名を呟いてみる。深い森で二人きりで暮らした一月あまりの日々は、故郷の大和の父や兄達との思い出や肉親への情とは違った別の、愛を秋生に教えてくれ、尊い価値のある、絶対に忘れたくない大切な思い出となっていた。


 「どうした、やっぱり疲れたのか」
急に黙り込んでしまった秋生を心配そうに見つめるエリアルドの問いに、秋生は我に返り、慌てて頭を振って否定すると、元気に笑って見せた。

 「おなかが空いちゃって。もうペコペコです」
「ハハハ、まだまだ色気より食い気だな」
エリアルドの言葉に、再び男達から笑いが漏れる。
 「色気のほうは、いつでも言ってくれれば、俺が手取り足取り教えてやるぞ〜っ」
なんて声も誰からかあがる。

 「もう、すぐそういうことを言うんだから!!信じられない!!」
真っ赤になって怒る秋生と爆笑する騎士達は、戯れに疲れを忘れて、宿舎に向かって歩みを進めるのであった。


 ヒューリーはゴクリと咽喉を鳴らして、闇に紛れていく人影を見送った。欲しいという思いは、ますます大きくなっていたが、今、彼ら全員を相手にする無謀さを抑える理性が、僅かだが勝っていた。

 (焦ル必要ナド無イ。都ヲ手ニ入レサエスレバ、ドウニデモナルコトダ)
そんな余裕と自信がヒューリーにはあった。それほどに彼は香港の都の中心にまで深く入り込み、力を伸ばしていた。
 秋生と呼ばれていた少年もそのうちに自ら彼の足元にひれ伏し、彼の生贄に選ばれた事を光栄に思うことだろう。

 (ソノ方ガ、面白イ。神ノ祝福ヲ受ケ、聖ナル力ヲ持ツ者ヲ汚ストイウノモ、最高ノ趣向ダ。ソノ日ガ待チ遠シイ)
 ヒューリーは、再び翼を広げると、闇の中へ飛び立った。そして、はやる心を冷ますように、スピードをあげ、幾度も都の上空を旋回しながら、彼の住処へと戻っていくのであった。

                                     つづく
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