亜州王国物語2


2005年4月14日 更新
(4)

 「・・・・・・大きな鳥の羽ばたきか。確かに空からなら我々の警備の裏をかくことも容易だな。だが、女官の話だけでは、その存在を認める訳にはいかないぞ、エリアルド」
騎士団長、コンウェイ・ロッドは、慎重な面持ちで言った。
 「はい、団長」
エリアルドは素直に頷いた。突飛な話だという事は、彼にもよくわかっていた。

 一日の任務を終えた騎士達は、騎士団長へ王女つきの女官から聞いた話を報告していた。信じ難い話ではあるが、初めて得た犯人の手がかりであった。
 「お言葉ですが、団長。今までどおりやっていても、結局同じ事の繰り返しです。犠牲者は増える一方だ」
 シェンが激しい口調で噛み付くように言った。それに同意するように、幾人かの騎士も大きく頷く。コンウェイは疲れた様子が隠せない騎士達を、ゆっくりと見渡した。

 騎士団長を勤めるコンウェイ・ロッドの歳は43歳。黒髪に黒い瞳に男らしい太い眉。全体的に粗削りな作りの顔ではあるが、その褐色の肌とあいまって、団長としての堂々とした風格を漂わせている。そのがっしりとした腕の鍛えられた筋肉が、言葉なくして剣の腕前を物語っていた。

 「ほう、シェン。ならばその鳥のような犯人をどのように捕らえようというのか、聞かせてもらおうか」
渋い落ちついた声で問われ、シェンは言葉を失った。ザワザワとざわめく騎士達。彼らをじっと見つめていたコンウェイは、やがて静かに切り出した。

 「諸君らの気持ちが分からないではない。確かに初めて得た犯人の手がかりではある。が、確かな証拠も得ないままで我々が動く事は、王宮を、いや、香港の人々を惑わす事になってしまう。それは避けねばならない。『魔物』とあればなおの事。香港は戦神、青龍の守護を受けた都。『魔物』の存在などあってはならぬものだ。神殿の権威を脅かすものとして、神殿の耳に入ればただではすまない。
 あえて言わずとも諸君らは分かっているだろうが、王が病に倒れられてからというもの、王の代理を務めるヘルベス宰相大臣と一部の貴族達が神殿と手を結ぶ事によって、都の行政を完全に牛耳っている。
 本来中立の立場である神殿の王宮内での発言力は、残念ながら絶対的なものだ。我々、騎士団の任務は本来、王族を守るためにあるのにもかかわらず、今の情勢においては、我々の失敗が、王や王女のお立場を損なう事になりかねない。それではますます相手の思う壺だ。故に慎重に動かねばならない。そこのところを分かってくれ」

 コンウェイはそれだけ言うと、重いため息をついて、椅子にドッカリと座って、小声で尋ねた。
 「あくまで個人的な話なのだが、エリアルド、『魔物』を見分ける方法は何かあるのか」
コンウェイの思わぬ言葉に、黙っていた騎士達にザワッとどよめきが走り、誰もの視線がエリアルドへと集まった。

 「神殿に気づかれぬようにというのであれば、一つだけ・・・・・・」
あっさりと答えを口にした美貌の主を、誰もが驚きの顔で見つめ、彼の言葉を固唾を飲んで見守った。

 「こうして思えばただの偶然ではないのかもしれません。彼が現れたのも三ヶ月前。丁度、王宮で犠牲者が出始めた頃。まだ我々にも神の導きがあったののでしょうか」
ひとり納得している様子のエリアルドに焦れて、シェンがもどかしげに尋ねる。
 「エリー、何の事だ。早く教えてくれ」
「秋生だよ」
「秋生!?」
戸惑う友の顔を面白そうに見返しながら、エリアルドはその秀麗な口元に笑みを浮かべた。

 「正確に言えば、秋生の持つ聖剣、ファルシオンだ。青龍からラディス一世に授けられたといわれている聖剣の内、唯一現存するファルシオン。その刃には姿を変えた魔の本当の姿を映し出し、魔物を完全に消滅させる力を持つと本に書いてあったのを読んだ覚えがある。他に『魔』を見分ける方法としては、聖水をかけるとか、護符とかあるけれど、神殿から貰ってくるわけにはいかないので、私が作ってみますが、そんなものは最初からあてにしないほうがいいでしょう」
エリアルドの顔に似合わぬ辛辣な皮肉に、騎士達の間から苦笑が漏れる。

 「そういえば秋生はどうした。姿が見えないようだが」
騎士達の中に、秋生の姿がないことに気づいたコンウェイが尋ねる。
 「王女さまの所へ呼ばれていきました」
「また、あれかーっ」
頷いて答える騎士達に、コンウェイは苦笑いして言った。

 「まあ、あれで王女様が喜んでくださるのであれば、少しは我慢して貰おうかな。王女様の立場も微妙で、王宮では随分と窮屈な思いをなされていらっしゃる。王のご病気をいいことに、宰相大臣とその一派はしたい放題だ。王宮の財宝を勝手に持ち出しては着服しているという噂もある。それに気づいて批判した者は、ことごとく潰されてしまったそうだ。今では誰もが見て見ぬふり。そういう私も情けない話、奴らの力の前にはどうすることも出来ずにいる。いちからこの都はこんなになってしまったんだろうな。秋生が憧れている夢など、何処へ消えてしまったのか・・・・・・」

 「団長、何も出来ずにいるのは、我々皆がそうです。この無念の思いを抱いてる者は、都にはかなり多いはずです」
エリアルドの言葉に同意するように、騎士達の気迫のこもった瞳が、真っ直ぐにコンウェイを見つめていた。

 彼らと交替して今、任務についている者達とあわせても、今の騎士団員の数は見習いの秋生を入れても全部で47名。通常の半分以下の数である。
 今や騎士団とは名ばかりの貧乏所帯に成り下がってしまっていた。平和が続いた結果、貴族達は形ばかりの王家への忠誠や武勇よりも、名声や富や地位を得るほうを選んだのである。

 その持てる権力を使ってしかるべく要職につき、仕事らしい仕事もせずにその権限だけを利用し、豊かな恩恵を自分達だけのものとして私腹を肥やす事に専念し、騎士団に入団して武術を極め、王家や国のために働こうなどと考える貴族の子弟は、よほどの変わり者か、今の大勢に対して批判を持つ者かのどちらかである。

 そのせいもあり騎士団への風当たりは強く、今回の連続殺人の犯人捜しも、王直々の命だとされているが、実は騎士団を不利な立場に追い込んで決定的な止めをさそうという企みである事は、誰もが知ることであった。

 「秋生の夢を壊したくないよな」
シェンがポツリと口にする。
「今時めずらしく純粋で、あのでかい瞳をキラキラ輝かせて、騎士になりたいって言うんだよな」
「ああ、何にでも一生懸命で素直で、俺達が失いかけていたエネルギーに満ち溢れて輝いている。何より可愛いし」
エリアルドの端正な顔にフッと優しい微笑みが浮かんだ。

 「なんだよ、エリー。お前、あいつの事、気に入っているんだな」
「何を今更。お前だって、皆だってそうだろう。頭も良いし、あれで剣の腕前も大したものだし」
「ああ、元騎士団長の玄冥様から教わったという腕は確かだ。俺とやっても三本に一本は取る。あの細腕でだぞ。あと二・三年もしてもっと身体が出来てきたら、それこそ恐ろしいよ」

 シェンの言葉に嘘はなかった。まだ、成長途中にある秋生には、聖剣ファルシオンは重過ぎて体力が続かず、彼の持つスピードも半減されてしまう。だが、それでも亜州王国の武術大会で二年連続優勝しているシェンに、迫るものがあるのだ。成長した時、彼の良きライバルになることは明らかであった。

 「秋生、大丈夫かな。襲われたりしないかな。俺、心配だからちょっと迎えに行ってこようかな」
一人の騎士がソワソワと立ち上がる。
 「おい、おい、ラン。お前が送り狼になるんじゃないのか。余計に危なくないか?」
「煩い。それじゃちょっと行ってくるぜ」
仲間達に冷やかされながらも、ランは意気揚々と出て行く。それを見送りながら、コンウェイはため息をつくのであった。

 「やれやれ、お前達ちょっと過保護じゃないのか。あんまりしつこくすると秋生に嫌がられるぞ。そういうところは、見かけによらず結構奥手そうだしな」
団長の言葉に騎士達は爆笑する。疲れた皆の心がいつしか安らいでいた。楽しそうな仲間達を見つめ、自分も笑いながら、エリアルドは秋生によって、騎士団に新たな道が開かれようとしているのを感じるのであった。


 秋生は豪華な衣装に袖をとおしながら、前面の大きな鏡に映った自分の姿に内心ため息をついた。王女がデザインして作ったという衣装の数々はどれもきらびやかで、自分にはずきたものばかりであり、とても勿体無い気がしていた。
 ただでさえ、彼がまだ3歳の時に病気で亡くなった母にそっくりだという女顔や、食べても太らない華奢な肢体は、秋生のコンプレックスとなっており、秋生としてはどちらかといえば、故郷の父や歳の離れた腹違いの三人の兄達のように、男らしくキリッと逞しくあるのが理想であった。

 そういった意味で、騎士団の先輩達は、まさに秋生の憧れである。それに比べていつまでたっても細いままの自分が嫌であった。特に都に来てからは、鍛えられた先輩達の中にあって、より一層自分の貧弱さが目立ち、おまけに彼らが可愛いを連発してからかうので、ますますその想いは深まってしまっていた。

 「秋生、準備出来たかしら」
隣りの部屋から王女の声がかかる。
 「あっ、は・はい」
(ああ、恥ずかしいよ。どうしよう)
秋生は鏡に映った自分の姿を再確認して、服がちゃんと着れているかどうかを慌てチェックした。

 フリルのついた白いブラウスとピッタリフィットした皮のズボン。腰のところに渋い紫色の布を巻きつける。自分の細さばかりが目立つようで、恥ずかしくてたまらない。が、王女をいつまでも待たせるわけにはいかないので、秋生は大きく深呼吸して覚悟を決めると、部屋を出た。

 「キャーッ」
「可愛い〜っ」
悲鳴とも歓声ともいえる黄色い声があがる。王女を初めとして、いつの間にか集まったのか部屋一杯に女官達が溢れている。それでも部屋へ入りきれなかった者達が、廊下や窓から覗いていた。

 「見て〜っ、あの細腰〜っ」
「足長〜いっ」
遠慮のない視線に、秋生は照れて真っ赤になってしまうのであった。男兄弟の中で育ったのでこんなに女性に囲まれた事もない。どうしていいのかわからず立ち尽くす秋生に、マリーナ王女がうっとりとした表情で近づいてきた。

 「思ったとおりだわ。とっても素敵。よく似合うわ。でしょう?皆さん」
「は〜いっ」
マリーナ王女の無邪気な問いかけに女官達が声を合わせて答える。

 「私達の楽しみにもう少しつきあって頂戴ね。皆、貴方のことや騎士団の皆の話を聞きたくてたまらないの。仕事中に声をかけるのは不謹慎だし、我慢していたのよ」
「は・はい」
秋生はマリーナ王女や女官達の嬉しそうな顔に、こんな自分でもお役に立てるなばと覚悟を決めるのであった。

 それから次々と出されるお茶やお菓子をご馳走になりながら、秋生は女性達の質問攻めにあった。秋生の故郷の話、家族の事。それに騎士団の先輩達の事。特にエリアルドやシェンの人気は高く、矢継ぎ早に質問されて、下手な事も言えず、秋生はどう答えていいのか分からずに困ってしまうのであった。

 世間一般の評判とは違って、騎士団の人気が高い事は秋生には嬉しい驚きであった。目立つ要素は充分の騎士団員達ではあるが、彼らを軽んじる風潮が強い事もあって、特に王宮内では表立って声をかけることも憚られるらしい。また、そんな世間の目を気にする事無く黙々と任務をこなす彼らに、遠慮していたようでもある。

 騎士団の宿舎での普段のだらしないところも確かに知ってはいたが、ただの落ちこぼれではないことも秋生は知っていた。確かに王宮内での騎士団への風当たりの強さは、警備をしていても感じる事が多かったが、彼らが日々の糧を得るために、町の人々の手伝いをする事も良くあり、彼らを良く知る町の人々の間での人気は、なかなか大したものである。秋生も騎士団の先輩達の事を尊敬しているので、女官達の質問に一生懸命にこたえようと、努力するのであった。


 気がつけばすっかり夜もふけており、ちょうど先輩の騎士、ランが迎えに来てくれた事もあって、名残を惜しみながら、秋生はマリーナ王女や女官達に別れを告げて、王宮を後にした。

 「ラン先輩、わざわざすみません」
「いや、良いんだよ。俺が好きで来たんだから。皆、羨ましがっているぞ」
「本当にすみません」
秋生は気さくなランにペコリと頭を下げた。正直言って少しホッとしていた。香港の都の夜道は、昼間の賑やかさが嘘のように消えうせて、もの寂しいのである。それに両手に余るほどの王女からの贈り物を、一人ではとても持ちきれないほどであった。

 先輩の騎士ランは、茶色の髪に青い瞳で、お世辞にもハンサムとは言い難いが、人の良さの滲み出た愛嬌のある顔をしていて、その通りに面倒見が良くて、秋生の事を何かと気遣ってくれる。身体は他の騎士達に負けず劣らず逞しく、秋生は故郷の兄達にどこか雰囲気が似ている彼の事を、慕っていた。

 夜道を二人、取り留めのない話をしながらね宿舎へと向かった。季節は夏から秋へと変わり始め、少し冷たくなってきた風が爽やかに吹き、晴れ渡った夜空には満天の星が瞬いている。

 (あれっ)
ふと、秋生は自分達の後をつけてくる足音に気がついた。それは巧妙に隠されていたが確かで、それも一人ではなく、複数だと思われた。隣りにそれとなく視線をやると、ランも気づいているらしく、目で合図してきた。二人は緊張しながらも、何気なさを装ってそのまま歩き続けた。足音は段々と近づいてくる。

 ランとともに街角を曲がった秋生は素早く物陰に隠れて、後をつけて来る者達の様子をうかがった。
 やがて現れた男達は、ランと秋生の姿を見失って慌てているようであった。風体は傭兵風の少し荒れた感じのする男達で、素性を隠すかのように口元を布で隠している。

 「どこへ行った」
「探せ」
小声で囁きあい、あたりを手当たり次第に探り始めた。秋生達が狙いだったのは間違いないようである。しかし、このままではすぐに見つかってしまいそうで、秋生とランは顔を見合わせた。

 「秋生、行くぞ」
「はい」
ランの言葉に覚悟を決めて頷くと、二人は息をあわせて男達の前へと躍り出た。秋生はドキドキと高鳴る胸を抑えて、腰のファルシオンをいつでも鞘から抜けるように、しっかりと握り締めた。

 「俺達になんのようだ」
ランの威嚇に不意をつかれた男達が慌てて、剣を抜き放つ。
「そこの小さいの、お前の剣を渡して貰おう」


 「小さいのだって!!」
自分の気にしている事をあからさまに口にされて、秋生は男達を睨みつけた。とたん、男達からおもいがけない言葉がとんだ。
 「こりゃ可愛いお嬢ちゃんじゃないか」
「えらい別嬪だぜ。剣をいただくだけじゃあ、勿体無い」
「たっぷり楽しませてもらおうぜ」

 その数10人余り。圧倒的に有利な人数のせいか、男達は余裕の様子で、華奢な秋生を甘く見ている様子である。
 「何っ!!」
失礼な言葉に憤る秋生をランがなだめた。

 「落ちつけ、相手になるな」
秋生はランの言葉に、熱くなり始めていた自分に気づき、フーッと息を吐いて気をおちつけた。男達はギラギラと飢えた目で、秋生をなぶるように見つめている。

 「お前達の好きにはさせん!!」
ランが秋生を庇うように一歩前に出る。その彼に男達はいっせいに切りかかった。
 キーン、カッ、キーン
刃と刃がぶつかりあって、暗闇に青い火花が散り、鋭い音が響き渡る。男達の攻撃をランが見事な剣さばきでやり過ごす。

 だが、男達は人数にものをいわせて、遠慮なく攻撃を続けてくる。荒れてはいるがなかなかの使い手ばかりであった。
 「秋生ーっ、お前は宿舎に戻れ」
秋生を守ろうとするランが必死で叫ぶ。

 「駄目です、ラン。貴方をおいて行けません」
いくらランの腕が確かなものでも、このままでは時間の問題であった。
 (このままじゃ駄目だ。でも、逃げるなんてもっと嫌だ)
「相手になってやる」
秋生は覚悟を決めて男達に叫びながら、ランの横に躍り出た。すかさず男の一人が切りかかってくるが、秋生はなんなくそれをかわし、反対に攻撃をしかけた。ファルシオンのズシリとした手応えが、秋生の心を熱く駆り立てた。

 一人。二人。次々と倒されていく仲間達に男達は、自分達の獲物である少年が、とてつもない剣の使い手であることを思い知らされた。
 気がつけば残りは三人。彼らは地面に倒れて、血に染まりながらうめく哀れな仲間達への同情もなく、ただその場から逃げ出すことばかりを考え始めていた。

 闇の中に浮かび上がった美貌。星明りに照らし出された剣の、鋭い銀色の光を受けた面の美しさと、外見の華奢さからはとても信じられない剣さばきのギャップが、この世のものとは思えない美を圧倒的な存在感に変え、その余りの壮絶さが男達の恐怖を一層煽るのであった。
 (殺される)
次は自分の番かもしれないという恐怖が男達をジリジリと追い詰めていった。
 
 ついに一人男が恐怖に耐えられなくなり、剣を滅茶苦茶に振り回しながら、秋生へ襲い掛かる。それに動じる事もなく簡単に身をかわし、フッと口元に笑みを浮かべた秋生に、勢い余って転んだ男は、死への恐怖から半狂乱になって近くにあったものを手当たり次第に投げつけた。

 「うわあっ」
運悪くその一つの小石が、後ろを向いて二人の男を相手にしていたランの頭に当たり、体勢を崩した彼へ、ここぞとばかりに男達は剣を振るった。
 「うっ」
なんとかかわしたものの、左脇腹を剣がかすって、血が滲む。

 「ラン!!」
驚いて駆け寄る秋生に、ランはうめくように言った。
 「大丈夫だ。単なるかすり傷だ」
 だが、血は抑える左手を濡らして流れ落ちる。その隙に男達は一斉に逃げ差って行ってしまった。

 後を追うすべもない秋生は、苦々しい想いで見送りながら、顔から血の気が引き、ふらつき始めたランの身体を支えた。が、二人のウエイトの差は余りにも大きかった。
 「ラン、しっかりしてください」
「すまない、秋生」
なんとか自力で立とうとするランの意志に反して、身体から次第に力が抜けていく。

 「誰か、誰か、助けて下さい!!お願いします!!」
秋生は声を限りに叫んでみたが、周りのどの家の門も窓も開かれる事はなかった。確かに窓の向うから、表の様子を見つめている視線が幾つもあるというのに、助けを求める声に応じる者はいなかった。誰しもが関わりあいになる事をおそれているのである。

 (どうして、誰も出できてくれないの)
「誰か、お願いします。怪我人がいるんです」
 (誰か、ランを助けて、お願いだ!!)
必死の叫びもむなしく闇の中に溶け込んでいくばかりであった。

 (どうして何故)
秋生の心が絶望にとらわれ始める。いくら夜だからといっても街の中での事。自分の叫びが誰にも届いていないはずはない。それなのに答えてくれる者が誰もいないのだ。ランの様態は思わしくない。意識を失ってしまった彼の身体を一人で支えるには、自分は余りにも非力であった。

 (誰か助けて、お願い!!)
その時、不意にずしりとしたランの重みが消えた。
 「えっ」
ランの身体を支えてくれる人影を認め、秋生は喜びに振り返った。だが、やがてその姿を見つめる瞳が驚きに大きく見開かれ、信じられないとばかりに小さく頭を横に振った。

 「ビンセント・・・・・・どうして・・・・・・」
会いたいと思いつづけていた人であった。が、その人は秋生の驚きに応えるでもなく、黙ったままランの巨体を肩になんなく担ぎ上げた。

 「怪我の心配はありませんが、出血が多いようです。どこへ運べばいいのですか!?」
懐かしい低音の響き。自分でもわからない様々な感情が、一瞬の内に秋生の身体の中にわきおこり、駆け巡った。が、それに浸っている場合ではなく、溢れる想いを必死に抑え込んで、秋生は震える声で言うのであった。

 「騎士団の宿舎まで、お願いします」
「わかりました。案内してください」
 ビンセントの言葉に促がされて、秋生は走り出した。その後を長身のビンセントが、ランを担いだまま遅れずについてくる。

 (ビンセント、どうして。ああ、でも来てくれた。嬉しい)
関わりあいになる事を恐れて、知らぬふりをした街の人々への絶望感にとらわれ、胸が張り裂けそうになった自分の切なる願いに応えるかのように、救いの手を差し伸べてくれた、その奇跡のような事実に、秋生は彼への熱い想いを高めるのであった。

 (ああ、会いたかった、ビンセント)
溢れる想いを胸に、時々振り返ってはその姿を確かめて、秋生は道を急いだ。


                                         つづく

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