2003年3月10日 更新

(3)

 「どうぞ、こちらへ」
部屋の扉を開いて、ビンセント・青を招き入れる。狭い部屋に不似合いなダブルベッドのほか、これといって何もない寂しい部屋が、冷たく暗い照明に浮かび上がり、かつて感じ事のない寒さを覚えて、秋生は小さく身震いした。

 ビンセント・青は自分をお金で買ったのである。少なくとも先程まで感じていた再会の喜びは、無残にも呆気なく踏みにじられてしまった。わざわざ自分をこんなところまで探して会いに来てくれたのだという嬉しい思いは、何処かへ消え去り、いっそあのまま会わないほうが良かったのにという後悔へと変わり、恨みにも変わった。客と男娼という関係になるよりは、一時の夢で会ったほうが何倍もましであった。

 (何故・・・・・・ミスター、ビンセント・青だから?どうして?)
知り合ったばかりの人に、何故こんな想いを抱いてしまうのか自分でもわからなかったが、彼がマダム・トーニャにお金を払った瞬間に感じた絶望は、いまだかつて経験した事がない衝撃となって秋生を襲い、心を揺さぶられたのであった。

 「どうかしましたか?」
秋生の沈んだ様子を見かねたように、ビンセントが尋ねる。
「いいえ、ミスター。なんでもありません」
否定しながら、なんでもないとばかりに、秋生は無理矢理笑って見せた。

 (あっ!?)
自分を見つめるビンセントの優しい瞳に捕らえられた秋生は、自分の心臓がドキンと大きく打つのを感じ、そして、覚悟を決めるのであった。
 これが自分の仕事なんだからと。彼がそれを望むなならば受け入れようと。普段ではどんなに望んでもきっとこんなに素敵な人と一緒にいることはかなわないし、こんな機会はもう二度とありえないだろうから。一夜の夢を自分が見たとしても許されるのではないか.。それならば自分にとっても最高の夜にしたかった。

 「ミスター、上着をどうぞ」
上着を脱ぐのを手伝って、それを壁のハンガーへとかける。
「シャワーをお使いになりますか?すぐに用意しますから、どうぞ」
いつものように決められた手順で進めていく。ビンセントの応えを待たずにシャワールームへ行こうとした秋生は、彼に腕を取られて止められた。

 「ミスター、何か?」
何か不都合な事でもしてしまったのかと、不安になって慌てて尋ねる。ビンセントの眼差しからは、優しさが消えていた。変わりに深い瞳の奥に浮かんだ陰りが、なんだか自分を哀れんでいるように思えて、秋生は長身のビンセントの首に両腕を回して、背伸びをすると、自ら口づけた。触れるか触れないかの軽いキッスを繰り返す。が、彼はそれに応えようとはしなかった。それどころか、首に回している秋生秋生の腕を剥がして、密着した身体をそっと離すのであった。

 「秋生、貴方はこんな事をしてはいけない」
静かな声だったが、それは秋生の心に止めの杭を打ち込んだようなショックを与えた。彼からの思いがけない拒絶に思えたのだ。

 「ミスター、御免なさい。気に入って下さるようになんでもしますから」
わざと自分を傷つけるような未練たらしいセリフを吐き、媚びるように彼の胸に縋りつくように身体を預けようとしたが、それさえもビンセントは拒み、秋生の肩をそっと腕で押しやるのであった。

 「どうしてですか?」
恨みがましい視線を彼にぶつける。自分を買ったのは彼の意志であったはずだ。だから自分も覚悟を決めたというのに、今更拒まれるなんて、自分は彼の相手をつとめるほどの価値もなてというのだろうか。触れることも許されないほどに汚れた尊大だというのだろうか。

 涙腺が思わず緩むのを感じて、秋生はたまらず部屋から、ビンセントから逃げ出そうとした。が、それも許されなかった。ビンセントが秋生の腕を掴んで引き止めたのである。拒んでおきながら引き止めるその理由が、秋生には分からなかった。

 「僕がお気に召さないのでしょう?だから抱いてくださらないのですね。でしたら、代わりの者を寄越しますから」
拗ねて顔を背けたまま秋生は訴えた。

 「その必用はありません」
ビンセントの声は冷たかった。
 「貴方はこんなことをするべきではない」
そう言いながら、回り込んで自分の顔をそっと捉えて、告げる彼の真剣な眼差しが、淫らな自分を責めているように思えて、秋生はカッと頬を赤らめると、恨めしい思いを彼にぶつけるのであった。

 「どうしてそんな事をいうんですか?僕を一晩買ったのは貴方じゃありませんか。それに、これが僕の仕事なんです。そうして僕は生きてきたんですから。貴方に、貴方なんかにとやかく言われたくありません!!」
必死で訴える秋生の目からは、ついに涙が溢れて頬を伝わった。

 「秋生・・・・・・ああっ、私を許して下さい。貴方を傷つけてしまったのですね」
秋生の思いに気づいたのか、ビンセントは秋生の涙をそっと指で拭うと、その震えるか細い身体を抱き締めた。

 「そんなつもりはありませんでした。私はただ貴方とゆっくりと話しがしたかった。誰にも邪魔されたくなかったから、貴方を独占したいために、失礼ながらマダムにお金を支払ったのです。ああ、でもそれは間違いでした。許して下さい」
そう言いながら、ビンセントは宥めるように、秋生の髪を優しく撫でるのであった。

 「僕を軽蔑しますか?しても 仕方ないですけど。でも、生きていくためには仕方なかった。どうしようもなかった。こんな事、好き好んでやっているわけじゃありません。でも、こんな事でもしなきゃ、僕は、生きてこれなかったんです」

 涙声でポツリポツリと語る自分を、ビンセントがどんな想いのこもった瞳で見つめているか、秋生は少しも気がつかなかったが、暖かなその胸の温もりをじかに感じて、荒れていた心は次第に落ち着きを取り戻すのであった。

 「軽蔑などしません。一人で頑張ってきた貴方を誰も悪く言うことなど出来ません」
「ありがとうございます・・・・・・ミスター」
秋生はそっと顔を上げて、睫を涙の雫で濡らしたまま、本当に嬉しそうに笑って見せた。

 その健気な姿が愛しくて、ビンセントはもう一度、秋生の華奢な身体をしっかりと抱き締めるのであった。この細い肩で一体どけ誰の苦労を背負い、辛い茨の道を歩んできたのだろう。そう思うと堪らなくて、この哀れな存在を自分達の思惑で利用し、弄んできた者達に対して、怒りを抱かずにはいられなかった。

 「もっと早く貴方に会えていたら、こんな思いをさせなかったのに・・・・・・」
その呟きは彼の本心であった。
 「今からでも遅くありません。此処を出ましょう」
嬉しい言葉であったが、秋生はまた目に涙を溢れさせながら、頭を横に振るのであった。

 「ありがとう、ミスター。その気持ちだけで充分ですから。同情してくださるんでしたら、僕を・・・・・・だ・抱いて下さい。一晩だけの夢を僕に下さい。お願いします」
 (その夢を大切にして、僕はこれからも生きていけるから)
最後の言葉胸の中に大事にしまいながら、秋生はビンセントの返事を待った。

 「秋生・・・・・・」
名前を呼ばれて、ピクンと身体を震わせて、弾かれたように顔を上げる。と、ビンセントのすんなりとした優雅な指に顎を捕らえられ、驚く間もなく、彼の美しい顔が近づいてきて、秋生の唇を塞いだ。それが、彼の答えだった。

 (ああ、ミスター)
喜びに震える指で、彼の上等なシャツを握り締め、全てを彼に委ねる。
 彼の舌が口腔を犯し、しなやかな指が身体を弄る。それだけで行為に鳴らされた秋生の身体は、いまだかつて味わった事のない快感の波に襲われ、溺れていった。
 「ああ、ミスター。愛しています」
思わず口から零れた本当の心。誰にも告げたこともなく、大切にしてきた言葉であった。

 空港のラウンジで声をかけてきた男に応じて振り返った、その瞬間に受けた電撃的な衝撃。まさに神の啓示を受けたような『運命』を秋生はその時感じたのである。《この人だ》という、理由のない確信。単なる思い過ごしかもいれないという疑いをこれっぽちも感じる事無く、その瞬間に彼は《特別》であった。自分はこの出会いをずっと待っていたのだ。
 それはきっと母が父と出会って過ごした僅かな日々の間に感じ、死ぬまでずっと大切にした《特別》な感情に間違いなかった。

 (ああ、愛している。僕はミスター、ビンセント・青を愛してる)
何故それが彼でなければならないのか、理由など必要なかった。今まで過ごした男達の誰もそれを秋生に与えてはくれず、感じさせてはくれなかった。誰とも違う特別な存在であった。

 「ミスター、ああ、ビンセント」
行為がこんなにも優しく、熱く、蕩けるようなものだったことを、秋生はビンセントによって始めて知らされたのであった。

 安らかな温もりに浸りながら、そっと目を開くと、ビンセントの優しい瞳が自分を見つめていた。
 「秋生、気がつきましたか」
言われて、自分が意識を飛ばしてしまったいたことに気づき、恥ずかしさを覚えて、秋生は彼の胸に甘えるように顔を伏せた。

 「秋生、貴方が愛しい。もう、離したくない」
「ミスター、嬉しい」
それがたとえ偽りの言葉であったとしても、永遠の夢を手にすることが出来た秋生は、本望てどあった。
 誰のものでもない、自分だけの夢であった・・・・・・。

                                         つづく

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