2003年8月3日更新
(3)
空港からホテルまでの僅か15分余りのうちに、私はすっかり秋生に惹かれてしまっていた。あの人の息子であるという特別な思いも確かにあったが、それを差し引いても、秋生は素直で明るく、育った環境の割には礼儀もしっかりと身についていた。
彼は、母親が歌姫をしていた酒場で住み込みで下働きをしていると語った。学校へはほとんど通っておらず、母親が生きている時は彼女から勉強を教わり、彼女が三年前になくなってからは、本を読むぐらいだと謙遜していたが、よほど母親がしっかりと教えたのであろう。とても教育を満足に受けていない人間だとは思えないほど、話の内容は豊富でしっかりとしていた。
「ミスター、ここです。本当にとても楽しかったです。それじゃ」
ギャラクシー・エンパイア・ホテルの仰々しい玄関まで辿り着くと、秋生はあっさりと別れの言葉を口にして立ち去ろうとした。彼にとって私は、道案内しただけの通りすがりの人間に過ぎなかったのである。それを失念するぐらい私の中には、彼ともっと話をしたい、知りたいという思いが強く生まれていた。
「秋生、待ってください」
慌てて彼の腕を捕らえて、引き止めた。
「お礼をさせてください」
「いいえ、気にしないで下さい。ミスター。貴方とお話出来て、とても楽しかったですから」
ニッコリと微笑むその邪気のない顔を見て、益々彼を帰したくないと思った。
「駄目です。このまま貴方を帰しては、私の面目が立ちません。おとなしく食事を奢らせて下さい」
強引な誘いであったが、秋生は気を悪くした様子もなく、驚いた顔をしてから、おなかを抱えて笑い出した。
「ミスターって面白いですね」
私を知るものが聞いたら、真っ青になりそうな言葉であったが、秋生に言われても腹はたたなかった。それよりも、彼が私の誘いを受ける気になってくれたかどうかの方が、気がかりであった。
「本当にご迷惑じゃないですか?」
「全然どころか、大感激です」
私は彼の方に手を回すと、まだ少しためらっている秋生を、強引につれてホテルの玄関を入っていた。
先にホテルに着いていた廖が迎えに出て来て、あの方の本葬の報告と三家の当主からの連絡を受けている少しの間、秋生にはロビーで待っていた貰う事にした。だが、急いでその場へ戻った私を待っていたのは、ホテルの支配人であった。
「お客様、申しわけありませんが、お連れの方には帰っていただきました。当ホテルといたしましても、身分違いの相応しくない人間を認めるわけにはいきませんので。ごり幼少下さいませ。他のお客様にご迷惑がかかります。ご忠告といってはなんですが、町には立ちの悪いものがおりますゆえ、お気をつけてくださいませ」
慇懃無礼なその物言いに私は、怒りを覚えた。
「彼は、私の大切なお客だったのだよ」
「それでもございます。あの者は、観光でいらした方を狙って悪さをする類いの人間でございます」
私は余りの怒りに言葉を失った。秋生の躊躇いは、この事を予想しての事だったのに違いない。私は、彼に会えた事に冷静さを失い、あの健気で優しい少年の気持ちを傷つけてしまったのである。支配人に対する怒りよりも、無神経な自分に対する怒りが大きかった。
そして、この歪んだ星、ラ・メールで生きていく事の現実を知らされたようで、空しさを覚えるのであった。
私は、廖から秋生の働く店の場所を聞き出し、夜になるのを待つと、雑多な繁華街の場末の店、『マダム・バタフライ』を訪れた。
母親が歌姫をしていた頃からの店の名前であったが、今はオーナーが変わって、報告どおりの怪しげな商売をメインにしているらしい。
あの彼が誰かに抱かれている姿なんて、想像するのも嫌気がさすほどに、自分がいかに汚れている人間かを思い知らされるような気がした。そのためか、店が近づくにつれ、秋生に会えるという喜びの気持ちの中に、知ってはいけない現実を見たくない気がして、足取りも重くなるのであった。自分でも不可思議なこの感情は、黄龍グルーブの後継者を見極めるという大事な務めには、不必要なものである事はわかっていたが、自分ではどうしようもないのであった。
そして、私は気がついた。私の存在の全てであった『秋生』様を失って、粉々に砕け散っていた私の心の中に、あの儚げな少年が生き始めている事に・・・・・・・。
新しい未来が待っているのか、失望に終わるのかという不安に苛まれながら、私はついに『マダム・バタフライ』の扉を開いた。
暗い店内には、長年にわたって染み付いた酒と煙草のなんともいえない臭いと、騒がしい男達の声とBGMが氾濫していた。私は一瞬躊躇ってから、ゆっくりと中へ入り、秋生の姿を探したが、見当たらなかった。と、男達の胡散臭げなな視線が私に向けられ、店の中に緊張が走った。彼らにしてみれば、見かけない怪しげな男が何をしに来たのだろうかと探りをいれているというところだろう。
「い・いらっしゃいませ」
年の頃なら二十半ばの、その豊満な肉体の、出せるところは全て出していると言っていいぐらいに肌を露出したドレスを来た女が、店の危ない雰囲気察して、慌てて余ったるい声をかけて来た。
「人を捜してしるんです。工藤 秋生という17歳の少年なんですが」
秋生の名前に反応して、女の目が驚きに大きく見開かれた。
「あら、秋生のお客さん。奥にいるわ。ちょっと待っててください」
言うなり、女は身を翻して、小走りに店の奥へと消えていった。そして、すぐに女は秋生を伴って現れた。
「あっ、ミスター、ビンセント・青」
場末の汚れた酒場には少しも相応しくない清廉な笑顔で私の名前を呼ぶ秋生の顔に、昼間の出来事へのこだわりの影がない事を感じて、私は内心ホッとしていた。彼を傷つけた事へのうしろめたさが、私の中にあったのかもしれない。秋生の素直さと健気さに感謝した。
彼が傷ついていないはずはない。許す事の出来ない屈辱的なことだったろうと思う。その原因を作ってしまった無神経ともいえる私の愚かな行動を恨むでもなく、満面に笑みを浮かべて迎えてくれたのだ。
「ミスター、どうして?」
秋生の笑顔に釣られるように、私は照れ臭さを隠して笑って言った。
「こんぱんは、秋生」
白いシャツの袖を捲り上げ、黒のズボンと蝶ネクタイ姿の秋生が、子犬のように一目散に私の側に駆け寄って来る。
「秋生、捜しましたよ。昼間は失礼しました」
私の謝罪に、全然気にしていないと、秋生は小さく頭を横に振った。
「仕方ないです。本当にそうだったから。僕こそミスターにご迷惑をかけたんじゃありませんか?」
「とんでもありません」
謝らなければならない立場の私を気遣う優しさ。先程まで心の奥に重くのしかかっていた不安は、何処かへ消えうせていた。
秋生の案内で席につく頃には、店中から注がれる不躾な視線も、興味を無くしたのか消えて、元の騒がしさが戻っていた。
改めて店の中を見渡し、私は感慨を覚えるのであった。
今から18年前、ここで若いあの方が過ごした時間があったのである。美しい歌姫と恋に落ち、たった一月だが幸せな時を過ごしたのだ。そして、今、私の前に座っている、歌姫の面影を色濃く残している少年は、あの方の名前を継いでいた。
面と向かいあって座ると、何故かお互いに照れてしまい、当り障りのない会話をしながら、ドキドキと妙に高鳴る鼓動に、翻弄される自分が、決して嫌ではなかった。
「いらっしゃいませ。秋生が何か貴方様にご迷惑をおかけいたしましたでしょうか?」
突然、かけられた声に、秋生がビクッと身を竦ませた。表情もどこか強張っている。
声の主は太った厚化粧の女で、悪趣味なギラギラの安物のドレスを着ており、きつい視線に怪しげな笑みを浮かべていた。
私が否定して、助けてもらったお礼に秋生を訪ねてきたことを伝えると、慇懃にこの店のマダム、トーニャだと名乗った。
私は秋生と話したいという気持ちが強かったので、彼女の存在を疎ましく思い、二人だけにしてくれるように言うと、彼女はそれにいたくプライドを傷つけられたようであったが、私には関係のない事であった。
ただ、秋生は彼女の様子を酷く気にしているように感じられた。
「すみませんね、ミスター。この子は今、仕事中ですので、そういう勝手を言われては迷惑なんですけれど」
彼女の態度が露骨に変わった。
「秋生を特別に指名していただいてもいいんですけれど。料金さえ払っていただければね」
廖の報告のとおり、この店で怪しげな商売がおこなわれていると言うのは確かなのであろう。二階へ向かう階段を、店のウェイトレスと男がじゃれあいながら上がっていく姿があった。
「これは失礼しました。でしたら、おいくら払えばよろしいのですか?」
私の言葉にマダム・トーニャはニヤリといやらしい笑いを浮かべた。それと反対に、秋生が過敏に反応した。
「ミスター!!」
秋生の顔は張り詰めて、みるみるうちに青ざめ、縋りつくような視線で私を見つめたまま、駄目だと拒否するように、頭を一度だけ横に振って、すっと視線をそらすと、唇をキュッと噛み締めて、俯いてしまった。
秋生の気持ちは手に取るように分かったし、それが彼を追い詰め、傷つけてしまう事だという事も察する事が出来たが、それでも確かめねばならなかった。
「一時間、三万」
それが高いか安いかなど、私は知る由もなかったが、断る気もさらさらなかった。
「いいでしょう。それでしたら、朝まで、秋生をお借りいたしましょう」
懐から財布を取り出し、提示した金額よりも遥かに多いお札を、テーブルの上に無造作に置くと、マダム・トーニャはそれを素早く手にとり、勘定して、ニンマリとあからさまな作り笑いを浮かべた。
「秋生、何をぼんやりしているんだい。お客様をお部屋にご案内しないかい」
マダムの言葉に、秋生がビクッと身体を強張らせ、青ざめた顔をして立ち上がった。
「ミスター、こちらへ」
その声がかわいそうに震えているのに気づいたが、私は無視して、彼の案内に従い、二階の彼の部屋へと上がって行った。
つづく
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