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2000年6月7日
「秋生、本当に大丈夫なの?」
昨夜から何度繰り返されたか分からないセシリアのその言葉に、内心うんざり気味ではあったが、そうと知られては彼女が気を悪くしかねないので、秋生は神妙に頷いてみせた。
「うん。皆がいなくて寂しいけど、我慢するよ。課題のレポートもあるし、今日は一日中、部屋でおとなしく過ごすからさあ。安心してパーティーに行って来て。本当に大丈夫だから、ねっ」
だがセシリアはその言葉の半分も信用していないと言った感じで、快活な可愛らしい顔に心配そうな表情を浮かべて考えこんでいる。
「ただでさえ彼が留守にするんで、それはそれはもの凄〜く貴方から目を離さないように釘を差されているのに、もし万が一何かあったら、どんな目にあわされるか分かったもんじゃないわ。私、やっぱりパーティー行くの止めようかしら。ちょっと未練ではあるけれど、次の機会がないわけじゃないんだし。ヘンリーのせいなんだから、ちょっと脅せば招待状ぐらいいつでも手に入れてくれるとおもうから」
「駄目、駄目だよ〜っ。本当に大丈夫だから。絶対行くべきだと思うよ」
秋生としても下心があるせいで、なんとしてもセシリアをパーティーへ行かせたい。
セシリアのいう彼、香港の若手実業家、『東海公司』社長のビンセント・青は、仕事で一週間前からアメリカへ行っている。帰ってくるのは、三日後の予定。
そして、香港大学の一年に在籍していて、秋生の遠縁だということになっているセシリア・朱の『パーティー』とは、どこから手に入れてきたのか分からないが、香港映画の超人気スターの誕生日パーティーの招待状で、香港の有名人という有名人が根こそぎ集まるらしいそのパーティーを彼女が随分楽しみにしていたのは、その時に着ていくドレスの買い物につきあわされ(荷物持ちとして),散々な思いをしたので、秋生は身をもって知っていた。
今日の秋生のお目付役の予定であったヘンリー・西は、なにやら仕事でゴタゴタが起こったらしく、都合が悪くなったと昨夜遅くにセシリアに電話が入ったきりで、今朝のTVのニュースで、ワンチャイの繁華街で銃撃戦があったと報じていたのに関係があるかもしれないと、秋生は思う。確か事件のあった辺りは黒社会の『一四Kの虎』と呼ばれているヘンリーが仕切っている地盤のはずであった。
その連絡を受けたセシリアは、秋生を一人にするのは忍びないと、折角のパーティーを諦めようとしているわけで、彼としてはそれでは彼女にあまりにも申し訳ないし、本当のところは、折角訪れたこのチャンスに、『お目付なしでたまには1人で過ごしてみたい』、なんて考えている分けなのである。
別に彼らと一緒にいて、窮屈だと嫌だとか言うのでは決してない。けれども、なんだかいつも大切に、過保護なくらいに守られている立場が、平凡なふつうの生活を営んできた日本人、『工藤 秋生』にとっては、ほんのチョッピリ重荷なのである。
一人で何がしたいという分けではないけれど、一日でいいから彼らの目を離れて自由に、好き放題してみたいと思ったとしても、罰はあたらないと思うのだが……。
「天地神明に誓って、絶対におとなしくしているから、ねっ」
「そう?」
まだ、決心しかねているセシリアに、秋生はブンブンと何度も大きく頷いて見せた。
「うん、だからパーティーに行ってよ、セシリア。じゃないと僕、申し訳なくって。ユンミンなんて『密輸』の仕事に燃えちゃって、居所さえよく分からない状態なんだし、ビンセントやヘンリーだって結構、好きにやってるじゃないか。それなのにあんなに楽しみにしてたパーティーを諦めるなんて。セシリアだけが僕のために犠牲になることなんてないんだから。大丈夫だから、楽しんで来てよ、ねっ」
結局,パーティーに行くことに決めたセシリアを送り出すのに成功した秋生は、部屋の扉を閉めるなり、
「やった〜!!」
と、躍り上がった。ワクワクと心が弾んで、勢いづいて居間のソファーの上にダイビングする。フカフカの豪華なマットの感触を味わいながら、秋生は無邪気にクスクスと笑って、細やかな野望の達成を喜ぶのであった。
香港に始めて来たのは、今年の春。その時に自分が実はこの世の始まりより、地の要として、人間に転生を繰り返す黄龍であることを知らされ、その黄龍を守るために存在する青龍・朱雀・白虎・玄武(ビンセント・セシリア・ヘンリー・ユンミン)の四人と再会をはたしたのであった。
五行によれば黄龍の性は土。地であり、地は天と対応し、役割は、縄を持って四方を納め各国の領土を支配する事。その黄龍を得た者は、地上を支配すると言われている。
だが、それは実際は少し違っていた。黄龍は、世界が陰陽に分かれる以前の混沌とした一気からなり、その混沌のむすぼれが意識となり、唯一無二の意識は、永遠の中で夢を見ている。この世界の夢をである。
そして、夢の中に常に自分が存在するように、黄龍もこの世に存在し、人間として転生を繰り返しているわけなのだが、黄龍の目覚めは即ち、夢であるこの世の終わりと言う事であり、世界は再び無に帰してしまう。
そのために黄龍は自分の眠りを守るために、自分の属性を五つに分け、そのうちの四つを独立させた。それが青龍・朱雀・白虎・玄武の四聖獣であり、彼らは黄龍の眠りを守るために5000年の時を、生き続けているのだ。
だから彼らは、黄龍である秋生を過保護に扱うのである。特に青龍=ビンセントの秋生に対する思い入れは激しくて、他の三人が呆れるほどに、真摯で熱烈な態度で接するのであった。
『黄龍殿さえ無事穏やかに眠っておられるなら、私は、人間など滅んでもかまわんと思っている』なんて言葉を、真面目な顔をしてサラリと言いのけてしまう。そんなビンセントの献身的な態度に、秋生は有り難く思う一方で、戸惑いを隠せないでいた。
自分の中に半覚半睡(いうなれば寝ぼけている)状態にある黄龍の意識が存在するのは確かな事であり、そのお陰で覚えたわけでもない広東語や客家語、潮州語など他にもいくつかの言葉が何故か理解出来てしまったりするわけなのだが、でもそれだけで普段、特別な事が出来るというわけではないので、やっぱり自分『工藤 秋生』
なんだと思っている。
ビンセントの献身的な態度は、自分にではなく、あくまで『黄龍』に向けられたものなのだから、それを素直に受け入れる事を、秋生はためらっているという分けなのである。
現在、秋生が住んでいるこのマンションも、ビンセントが用意してくれたもので、超高層マンションの三十階にある部屋は、内装から備え付けの家具一式まで、何から何までが超豪華な造りであった。
おまけにビンセントは、服から日用品の細々としたものから必要以外の贅沢品迄、電話一本でデパートに注文して届けさせたりする。そのために、クローゼットの中には、日本で生活していたときからは、考えられないほどの沢山の高価な衣装がしまわれており、それらの多くが袖を通してもいない、という有り様であった。
だが、ビンセントは、そんな 彼の戸惑いにまるっきり気づいた風もなく、ますます度を超えて、秋生を甘やかすのである。
「ミスター工藤、アメリカのお土産は、何がいいですか」
アメリカへ発つ前の晩、二人で食事に行ったレストランで、その整ったクールな容貌に優しげな微笑みを浮かべながら、ビンセントは尋ねた。が、秋生は頭を振って答えた。
「別に欲しい物とか今のところないから、気にしなくていいよ。その代わり、気をつけて<元気で無事に帰って来てね」
「ミスター工藤。私の事を心配して下さるんですか。お優しいんですね。ありがとうございます」
本当に嬉しそうな顔をして、自分をまっすぐに見つめるビンセントの様子に、秋生は頬を赤く染めながら、平静を装って言った。
「別に普通だよ。ビンセントには、いろいろお世なっているし……」
「いいえ、お優しいです。アメリカに着いたら電話しますから、お土産何がいいか考えておいてください」
「えっ、そんないい――っ」
断ろうとした秋生は、だが、満面に絶大なる信頼を浮かべたビンセントの様子に言葉を失ってしまった。
あれから一週間が経つが、アメリカに行ったビンセントからは、連絡はない。
(電話するって言ったのに、どうしたんだろう)
連絡しないでいいとは言ったものの、ないならないで心配になってしまう。
サイドボードの上に置かれた電話を、ソファーに横になったまま、秋生は恨めしげに見つめた。
トゥルルルルル、トゥルルルル
突然、電話の呼び出し音が鳴り始める。ドキンと心臓が大きく打ち、その偶然に驚きながら、秋生は慌てて身を起こして、受話器を取った。
「はい、工藤です」
はやる心を抑えつつ、一呼吸おいて出る。
「秋生」
懐かしい声が聞こえてくる。だが、それは待ち人のものではなく、日本の父であった。
「父さん、元気?」
「ああ、秋生こそどうだ。元気にやってるか?おまえったら全然連絡してこないから、随分、心配したんだぞ」
思えば前に連絡してから、一ヶ月近く経っている。
「御免、元気だよ。いろいろと忙しくって、本当に御免」
連絡しなければと思いつつも、いつでも出来るという安心感から、ズルズルと延ばし延ばしになってしまったのだ。
「いや、便りのないのは元気な証拠っていうからな。それよりセシリアさんとは、どうなんだ。うまくいっているのか」
「えっ、セシリア!?ま・まあね」
言葉を濁して誤魔化す。
以前、商社マンの父親が仕事で香港へ来て、秋生のマンションを訪れたとき、たまたま来ていたセシリアを見て、父親は二人がつき合っていると誤解したらしい。あえて否定して、二人の関係を深く追求されるのが面倒で、笑って誤魔化したのがまずかったようだ。
それからしばらく、お互いの近況を報告しあった工藤親子は、名残を惜しみながら、近々の再会を誓い合って、電話を切るのであった。
久しぶりの父親の声を聞いて、秋生は無性に日本がこいしくなってしまう。日本の大学の友人達にも会って、いろいろ話したい。馬鹿を言い合って、笑って,喧嘩して、無茶苦茶に遊ぶのだ。
(日本に帰ろうかな)
香港に来て半年余り。初めてのホームシックであった。日本の事をすっかり忘れてしまっていたわけではないが、妙に懐かしく思い出されてしまう。
(日本へ帰るって言ったら、ビンセントはなんて言うかな……)
彼の反応を想像してみる。
(駄目だっていうかな。着いてくるって言い出すかも。でももしかしたら、どうぞって、あっさり言われちゃったりして……)
なんだか怖い想像に不安を覚えた秋生は、考えを中断した。だが、不安は心に蟠ったまま消えなかった。
「ああ、駄目だ。暗いぞ〜」
不安をうち払おうと大声で叫ぶと、気を紛らわすためにCDプレイヤーのスイッチを入れた。だが、運悪く流れてきたのは、日本のバンドの歌である。
「あ〜あっ、ますます日本に帰りたくなっちやうじゃないか」
ささやかな自由を手に入れて、浮き立っていた心が、嘘のように落ち込んでしまっていた。
時計を見ると、昼の12時を少し過ぎたところ。朝早くからセシリアに叩き起こされたお陰で、少し寝不足気味である。それが自分の落ち込みの要因かもしれないと秋生は思う事にした。なんだかおなかも空いてきたようである。
冷蔵庫を開けてみると、ろくなものが入っていない。予定としては、今日くるはずだったヘンリーが材料持ち込みで美味しいものを食べさせてくれるはずであった。すっかりあてにしていたので、買い物もしていなかったのだ。
「買い物にでも、行くかな」
一人で外で食べるのは、空しくなるばかりだが、近くのコンビニに行けば、気分転換にはなるだろうと、秋生は着ていたシャツの上に、ズボンと同じジーンズのジャケットを羽織り、財布の中身を確かめると、早速出かけることにした。
超高層マンションの豪華な玄関口から少し離れた脇道に、一台の車が止まっていた。乗っているのは二人の男で、歳は二十代後半から三十代半ばといったぐらい。
一人は派手な色のシャツを着て,肩より少しのびた髪を後ろで束ねており、もう一人は水色のスーツを着て、黒いサングラスをかけ、髪はオールバック。雰囲気は極めて怪しげで、二人は鋭い視線をマンションの入り口へと向けていた。
「周の兄貴、本当にやるんですか?」
派手なシャツの男がスーツの男に尋ねる。と、煙草に火をつけながら周の兄貴と呼ばれた男は、小さく頷いた。
「ああ。金、怖じ気づいたのか」
「と・飛んでもねえ。俺に怖いもんなんかねえよ、兄貴。それより金が入るのは間違いねえのかな」
強面な外見とは違っていささか心配性な弟分の言葉に、周は苦笑いを浮かべた。金が入らないのに、こんな厄介な仕事を請け負うわけがない。
「大丈夫だ。払わねえようだったら、こいつで脅しをかける」
周はスーツの胸ポケットから小型テーブレコーダーを取り出し、再生スイッチを押した。
「……あの女を始末してくれたら、50万H$払うわ。前金で10万。残りは後で。人の亭主を寝取っておいて、図々しいったらあの女……」
パチッとスイッチを切る。依頼主は彼らの親分の正妻で、愛人を始末してくれとの頼みであった。
「ヒューッ、さすが兄貴」
抜かりのなさに感嘆しながら、とたんに元気を取り戻した金を、周はフンと鼻で笑った。
マンションの前にタクシーが止まり、中からド派手なボディコンのグラマーな女が降りてくる。
「帰ってきたぞ、あの女だ」
「ウヒョ〜、たまんねえな、いい女だ」
「行くぞ,抜かるなよ」
二人は車を降りると、マンションに入っていく女の後を、ゆっくりと追いかけるのであった。
「ちょっと、買いすぎたかな。まあ、いいか」
コンビニの袋を両手に一つずつ提げた秋生は、マンションへの道をゆっくりと戻り始めた。
食料品から雑誌まであれこれと漁りまくり、気がついたときは、この有り様である。
見慣れた風景。暦ではもう秋なのだが、香港では様子が違うけれど、いつの間にかすっかりなじんでしまっていた。
真昼の少し強めな日差しを浴びて、秋生は最近お気に入りの歌を口ずさみながら、散歩を楽しむのであった。
マンションのエレベーターに乗り込んだ秋生は、やれやれと荷物を床に置いて、手を休ませた。ビニールが手に食い込んで、赤い痕になっている。
スーッと上昇していく感じを味わいながら、正面上のランプが移動していくのを、秋生はぼんやり見つめた。
香港に来てから一人で行動するのは、別に初めての事ではない。それなのに、この虚無感。あんなに一人になる事を望んだくせに、自分でも何故か分からないが、物足りなさを感じてしまう。先程までのどかにくつろいだ気分を味わっていたはずなのに、エレベーターに乗りこんだとたん、再び息苦しい思いに捕らわれてしまっていた。
日本でも、母親が病気で亡くなり、父親ニューヨークに仕事で行ってしまってからは、一人暮らしを結構楽しんでいた。それが香港に来て、四人と巡り会ってからは、なんだか騒がしい、退屈しない日々を過ごしてきた。それになれてしまったというのだろうか。
チンッ、と、到着を知らせるベル。扉が開き、秋生はヨイショッと荷物を持って、廊下に出た。
秋生は自分の部屋の前に立ち、ポケットから鍵を取り出して、扉を開けた。部屋に入ろうと荷物を持ち上げようとしたが、ビニールが重さに耐えきれず破れて、中の物をぶちまけてしまう。
(げっ、ついてないぞ)
彼は己のドジさを呪いながら、身を屈めて慌てて拾う。
その時、エレベーターが止まって扉が開き、中から豊満な体にピッタリした丈の短いワンピース姿の美女が現れた。だが、彼女の顔を青ざめ震えていた。秋生の姿を認めた彼女は、ヨロヨロと頼りない足取りで、秋生の方へ近づいていく。
ふと誰かが近づいて来る気配に、秋生は頭を上げる。
「た…すけ…て……」
突然にそう言って、縋り付いてくる美女の身体を慌てて抱きとめながら、その肉体の柔らかな感触に、秋生は頬を赤く染めた。
「あ・あの、どうしたんですか」
「た・す・けーっ」
何かを言おうとしている彼女の身体が不意に力を失って、ガクリと崩れ落ちる。その身体を支えようと、背中に手を回した秋生は、ヌルリとしたものに触れ、難だろうと自分の手を見て、思わず悲鳴を上げた。
「ヒッ、血、血だ!!」
真っ赤に染まった手。
その時、非常階段をあわただしく駆け下りてくる足音が近づき、二人の男が姿を現した。
「いたぜ、兄貴」
「まずい、見られた。一緒に始末しろ」
そんな会話が聞こえてくる。
(見られた?始末?まさか、僕?)
ニヤニヤと不敵に笑いながら近づいてくる男達の手に握られた鋭いナイフ。その刃先は生々しい赤に染まっている。
秋生は力を無くして重さを増した女性の身体を支えたまま、自分の部屋へ逃げ込もうと、急いで扉を開け、美女を引きずり込むようにして中へ入れると、扉を閉めようとした。が、そんな秋生の目前にナイフが突き出され、躊躇ったその一瞬に、彼の身体は部屋の中へと突き飛ばされた。
「うわあっ」
美女の身体とともにバランスを崩して、激しく床へと倒れ込む。
「痛ーっ」
その間に男達は抜け目なく扉を閉めて、ドカドカと中へと入り込んでくる。
「うひょ〜っ、豪華な部屋だな〜っ」
金は部屋の中をジロジロと見渡して言った。
「このマンションには、本当の金持ちしか住めねえよ。桁が違うぜ」
「ちぇっ、ガキが贅沢な暮らししやがってよ。ついでだから金目の物をいただいちまおうぜ、兄貴。どうせ、こいつには無用になるんだからよ」
金はすぐさまあれこれと物色を始める。
「仕方のねえ奴だな」
周は苦笑するが、止めようと言う気配はからっきしなかった。
秋生は何がなにやら訳が分からず、パニックに陥っていた。女性はグッタリして、刺された背中からはドクドクと血が溢れ出ている。が、まだ、息はあった。早く手当をすれば助かるかもしれない。
秋生は女性の身体をそっとうつ伏せに寝かせ、枕にしようと、ソファーのクッションを取ろうと立ち上がった。
「おっと、おとなしくしてもらおうか」
周が秋生に近寄り、目前でナイフをちらつかせる。
「クッションを女の人に。手当てしないと死んでしまう」
「その必要はねえ。坊ちゃんよ、その女には死んでもらわなきゃならねえんだ」
「そ・そんな」
秋生は男の恐ろしい言葉にムッとして、睨みつけた。
「あんたたちがどういうつもりか知らないけど、人の命をなんだと思っているんだ」
秋生は自分でも大胆と思える言葉を吐いていた。これはひとえにヘンリーとつきあい始めたお陰であろう。
だが、周は馬鹿にしたように、唇の端を少しだけ歪めて笑った。
「随分、良い度胸じゃねえか、坊ちゃん。そんな女みたいな顔をして、見直したぜ」
だが、言葉とは裏腹に、秋生の首筋にナイフの先を押し当てる。
「ヒッ」
冷たい感触に秋生は白い喉を仰け反らせた。
「自分の命も危ねえのによく言うぜ。泣いて頼むんだったら、助けてやらねえこともないが……」
そんな気もさらさらないないことはハッキリしていた。男がその気になって、ちょっと力を込めてナイフを左右に引くだけで、秋生の命はおしまいだろう。そして、目の前の男は、それを躊躇することのない輩なのだ。
(バチがあたったんだ。皆の思いを、素直に受け取れない僕が、いけなかったんだ)
遠いアメリカにいるビンセントの、端正な顔を思い出す。すると胸にキュンと切ない痛みが走るのであった。
(嫌だ、死にたくない。ビンセント、助けて)
素直な心で遠い存在に助けを求める。
「汚ねえ事なんか、知らねえって顔してよ。男にしとくにゃ、勿体ない別嬪だぜ」
男の手が伸びて秋生の顎を捕らえ、値踏みするよう二時分の方へと向ける。そんな男の顔に浮かんだ残忍な表情に秋生は恐怖を覚えて、ビクリと身を竦ませた。
周は、おびえた目で果敢に自分を睨み付けてくる若者の少し潤んだ瞳を見て、自分の中の残虐な部分が増長するのを感じた。
「ツッ」
秋生が死んだ母親似だと言われる、男にしては少し線の細い整った顔を歪ませる。喉に走ったチクリとした痛み。ナイフが首の皮を薄く切ったのだ。その苦痛に歪んだ秋生の表情に、周の残虐性を縛っていた僅かな理性の糸がプツリと切れるのであった。
「ソファーに横になりな」
冷たい言葉とナイフで秋生に命令する。秋生は自分の身に起ころうとしている事態を察して、身を震わせた。
(殺される!!)
動こうとしない秋生の様子に、周は焦り、彼の身体を自分の身体で強引に押し倒した。
「なっ」
抗おうとする秋生の耳元で、周が囁くように言う。
「最後にいい思いをさせてやるぜ」
そして、クッと笑った男の目に浮かんだ狂気に、秋生は絶望するのであった。
周は仰向けになった秋生に馬乗りになったまま、ナイフを傷一つない秋生の頬にピタピタと当て、そして、刃先を皮膚におしつけると、スーッと線を引いた。
「あっ」
頬に走る痛みに、秋生は小さく声を上げる。
その反応に満足したかのように、周は刃先を頬から喉に移し、それから秋生のシャツのボタンを一つ、また一つと切りとばしていった。
そして、露わになった秋生の、日に余り焼けていない白い胸の上をナイフでシュプールを描いていく。切れた皮膚から血がスーッと滲み出て玉を作る。
周は、それを下でゆっくりと嘗め取っていった。
「うっ、嫌だ」
ビチャピチャという舌の生々しい音と暖かい感触に、嫌悪感が秋生の全身を走り抜ける。
(助けて、誰か。ビンセント、助けて!!)
身を捩って激しく抵抗する秋生の頬を、折角のお楽しみを邪魔された周が思いっきり平手で打つ。
バシッ、バシッ
その音を聞きつけた物色中の金が戻ってくる。そして、そこで繰り広げられている光景に、彼はニンマリと笑った。
「兄貴、終わったら俺にも回してくれよな」
そう言って、再び物色を始める。
秋生の頬をスーッと涙が流れ落ちた。
(僕の人生って、何だったんだろう)
弱冠21歳で、ただそこに居合わせたというだけで、殺されてしまうのだ。自分は死ぬ。が、〈黄龍〉は再び転生するだろう。そうなれば、青龍、朱雀、白虎、玄武の四人は、次の黄龍の転生体である人物を守るだろう。秋生の事など忘れて……。
(嫌だ、嫌だよ)
ビンセントのあの真摯な瞳が、自分以外の他人にむけられるなんて許せない。秋生は自分の中に潜んでいた激しい独占欲に驚いたが、認めぬわけにはいかなかった。
「なかなか良いぜ、坊ちゃん。もっと楽しませてくれよ」
周はそう言うと、秋生のズボンに手をかけた。
「嫌だ、止めろ」
だが、容赦はなかった。荒々しく下着まで脱がされて、秋生自身をきつく握られる。そんな屈辱的な行為がもたらす刺激に、だがそれは変化し始めていた。
「あっ、やだっ」
「フッ、ここは嫌がってないぜ、坊ちゃん」
周の卑しい囁き荷、秋生は羞恥に顔を赤らめた。
(ビンセント、助けて!!)
助けを求める叫びは、空しく心に響く。自分がこんなにも彼の存在を必要としていたなんて。気がついた時には手遅れで、自分は見知らぬ男に汚されて、死ぬのだ。
(さようなら、ビンセント)
全てを諦める。男に強引にもたらされる快感は、もはや苦痛でしかなかった。
バーンッ
玄関の方で凄まじい音がする。だが、周は秋生に没頭してしていた。
バリッバリッ
激しく鉄板が叩き潰されるような音が続く。
「何だよ、一体」
金が物色中の部屋から出てきて、音のする方へと姿を消す。
「ギャーッ」
凄まじい男の悲鳴が響き渡り、悲鳴の主が金だと気づいた周は、チッと舌打ちをして、秋生から身体を退けた。
「金、どうした。何をやっている」
ソファーから立ち上がった周に向かって、何かが弾き飛ばされてくる。それが金の身体だと気がついたときには、避けるすべはなく、激しく打ちあたった二人は床へと倒れ込み、動かなくなってしまった。
「ミスター、工藤!!」
懐かしい声が自分を呼んでいる。
(ああ、幻聴が聞こえる)
「ミスター工藤、何処です」
確かな声に、まさかと秋生はソファーから身を起こし、そして、部屋の入り口に、待ち人の姿を発見するのであった。
「ビンセント、どうして」
信じられず、唖然と見つめる。
「ミスター工藤!?」
ソファーに上半身を起こした、殆ど全裸に近い秋生の姿を目にしたビンセントの整った眉が、あからさまに顰められる。秋生は彼の反応に、自分の状態を思い出して、はだけられたシャツを慌てて掻きあわせた。
「ど・どうして、アメリカじゃなかったの」
だが、ビンセントは、彼の問いに答えなかった。そのかわり彼の身体から怒りのオーラが立ち上った。
「何という無礼な。許さない、お前達!!」
倒れたままビクリとも動かない二人の男を、銀縁の眼鏡の奥から冷ややかな視線で睨み付けた。
その静かだが凄まじさに気迫に圧倒された秋生は、自分の背筋をゾクリと冷たいものが走り抜けるのを感じ、自分を両腕で抱き締め、ガタガタと身体が震えるのを耐えた。そんな彼に視線を移したビンセントが、ゆっくりと近づいてくる。
「ミスター工藤」
その呼びかけに、秋生は弾かれたようにビンセントの顔を見上げた。
「ビンセント、どうして?」
まだ信じられない思いでいっぱいの秋生の問いに、だが彼は答えなかった。それよりも不意に秋生から視線を外すと、感情を押し殺した乾いた声で言うのであった。
「人が来ます。服を着てください」
その余りの素っ気なさにショックを受けながらも、秋生はいつもの優しい彼を思って、話を続けた。
「助けてくれてありがとう。もし、ビンセントが来てくれなかったら、僕ーっ」
「ミスター工藤!!急いで下さい」
語調の思わぬ激しさに、秋生は言葉を失ってしまう。
「ごめん」
気まずい雰囲気が流れ、いたたまれずに秋生は自分の部屋へ逃げ込むのであった。
突然、現れて救ってくれたビンセント。自分に対して無条件に優しかった彼の、余りの突然の態度の変化が、信じられなかった。
(嫌われた!?)
自分の情けない状況をまのあたりにした時の、彼の冷たい視線を思い出す。
(愛想を尽かされても仕方がないよね)
見知らぬ男に陵辱されかけた自分の不甲斐なさ。彼らの思いを蔑ろにする自分勝手な行動。失って初めて分かる、本当に大切なもの。
ナイフで傷つけられたところからは、まだうっすらと血が滲んでいる。傷自体は皮を切られた程度で対したことはないが、それによって受けた心の痛手は、予想外に大きかった。
(痛いよ、ビンセント)
のろのろと緩慢な動作で服を身につけ、恐る恐るビンセントのいる部屋を覗いてみる。
彼は電話をしていた。声をかけそびれて、秋生は玄関に倒れている女性の事が気になって、様子を見に行く。 女性は最早ビクリとも動かなかった。呼吸もしていない。その苦痛に見開かれたままになっている瞳が、恨めしげに秋生を見つめているような気がして、彼は冥福を祈りながらも顔を背けた。と、玄関の扉が目に入る。
それはもう、扉としての機能を果たしてなかった。取っ手のところが大きく捻り取られて、穴がポッコリ開き、歪んでいる。
バタバタと数人の足音が近づいたと思うと、扉が開かれて、警官が姿を見せた。
「工藤さんですね」
「はい」
「御通報、ありがとうございます。後は私共にお任せ下さい」
「はあ」
余りに丁寧すぎる警官の態度に秋生は戸惑った。が、
「御苦労様です。犯人は、リビングの方にいますから」
奥から出てきたビンセントに、警官はサッと敬礼する。
「これはミスター、ビンセント・青。いつもありがとうございます。署長がよろしくとのことでありました」
「こちらこそ、お願いします」
「はっ」
恐縮した感じの警官達は、わらわらと部屋の中に姿を消す。先程ビンセントが電話していたのは、普段から懇意にしている警察署長だったのだろう。と、秋生は思った。
「ミスター工藤、行きましょう」
掛けられた言葉に、秋生は驚いて彼を見た。
「何処へ」
だが、彼は秋生をチラリと見ただけで、脇を擦り抜けるようにして玄関から外へと向かう。
「病院です」
すれ違うさいに言ったビンセントの、ため息混じりの言葉に、秋生は先程感じた不安が確かなものであることを確認した。
(ビンセントに嫌われた)
彼の後を追う足取りも重く、秋生は絶対的な絶望感におそわれていた。
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